チャールズ2世(読み)チャールズにせい(その他表記)Charles II

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャールズ2世」の意味・わかりやすい解説

チャールズ2世
チャールズにせい
Charles II

[生]1630.5.29. ロンドン
[没]1685.2.6. ロンドン
イギリス,スチュアート朝のイングランド王 (在位 1660~85) 。チャールズ1世の子。清教徒革命により 1646年亡命。父王の処刑後,スコットランド王と宣言され,50年同地におもむいたが,ダンバーの戦い (50.9.) とウースターの戦い (51.9.) に敗れ,再度亡命。 60年ブレダ宣言を発して帰国し,王政復古成就。 62年ポルトガル王女カサリンと結婚。治世初期はクラレンドン (伯)国政を指導し,騎士議会は非国教徒弾圧のクラレンドン法典を発した。 65年第2次イギリス=オランダ戦争を開始。オランダ艦隊の来襲,大疫病 (65) ,ロンドン大火 (66) と続いたため,67年講和し,クラレンドンは失脚した。以後カバルが国政を担当。 70年フランス王ルイ 14世とドーバー条約を結んで旧教復活を約し,72年イギリス=オランダ戦争を再開,信仰自由宣言を発して旧教徒処罰を停止した。これに対抗して議会は翌年審査法を制定するとともに軍費を認めなかったので,やむをえずオランダと講和 (74) 。 78年教皇派陰謀事件を機に議会との対立が深まり,翌年騎士議会は解散された。新議会の一部は初代シャフツベリー (伯)を中心に,王弟ジェームズに対する王位継承排除法案通過をはかったが失敗。この王位継承権をめぐる激しい対立のなかで,ジェームズを排除しようとする反政府派と,王位世襲の原則を尊重してこの動きに批判的であった宮廷派は,ホイッグ,トーリーで呼合うようになり,ここにのちの二大政党の基礎が形成された。その後,チャールズはフランスからの援助金を獲得したため,81年以降は議会を開かず専制化の傾向を強め,名誉革命一因をつくった。

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改訂新版 世界大百科事典 「チャールズ2世」の意味・わかりやすい解説

チャールズ[2世]
Charles Ⅱ
生没年:1630-85

イギリス,後期スチュアート朝の国王。在位1660-85年。チャールズ1世の次男。ピューリタン革命内乱において国王軍が不利になったため,1646年母后の亡命先のフランスに逃げたが,49年父王が処刑されるとスコットランドが彼を国王と宣言したため,スコットランドに入って戴冠した。51年クロムウェルの率いる遠征軍に敗れて,ふたたびフランスに逃れ,以後9年間大陸各地で窮乏した亡命生活を送った。59年イギリス共和政の護国卿政権が崩壊すると,モンク将軍から交渉をうけ,〈ブレダ宣言〉で条件を提示したのち,60年5月ロンドンに入って王政復古を実現した。62年旧教徒であるポルトガル王女と結婚。

 治世の初期には亡命中の顧問であったクラレンドン伯が国政を指導したが,財政は逼迫(ひつぱく)し,また復讐心に燃える騎士議会のピューリタン弾圧,第2次対オランダ戦争(1665-67),ペストの大流行(1665),ロンドン大火(1666)と人心を動揺させる大事件がつづき,67年クラレンドン伯を解任して,後事を複数の顧問団(カバルCabal)にゆだねた。しかし国王は革命の教訓を忘れて従弟のフランス王ルイ14世の絶対主義体制の強化に憧れを寄せ,70年秘密裏に〈ドーバー条約〉を結び,多額の年金と引きかえにイギリスにおけるカトリックの復活を約し,72年〈信仰自由宣言〉を出した。議会はこの反動的風潮に態度を硬化し,〈信仰自由宣言〉を撤回させるとともに,〈審査法〉(1673),〈人身保護法〉(1679)をもって対抗し,さらに旧教徒の王弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)の即位を拒むため〈王位継承排除法案〉を上程した。この問題が議会内外にホイッグ,トーリー両派の抗争を激化させたのをみて,国王は81年以降議会を開かず統治した。臨終の際にはみずから旧教徒であったと告白した,といわれる。その治世は,前代の禁欲的ピューリタニズムの強制への反動として,国王を先頭に快楽を追求する風潮が強まり,またその政治の動向は次王ジェームズ2世のもとでさらに専制化に向かい,名誉革命への道を開くことになった。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チャールズ2世」の解説

チャールズ2世(チャールズにせい)
Charles Ⅱ

1630~85(在位1660~85)

イングランド国王。ピューリタン革命により父チャールズ1世が処刑されるや,1651年スコットランド王として戴冠。60年ブレダ宣言を発して帰国,王政復古を実現した。クラレンドンを側近としたが,しだいに反動化の傾向を強めた。65年に始まった第2次オランダ‐イギリス戦争では,ロンドン大火も重なり苦戦した。70年にはフランスのルイ14世とドーヴァ密約を結び,カトリックの復活を策して議会との対立を深め,名誉革命の一因をつくった。

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367日誕生日大事典 「チャールズ2世」の解説

チャールズ2世

生年月日:1630年5月29日
イギリス,スチュアート朝の国王(在位1660〜85)
1685年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のチャールズ2世の言及

【イギリス】より

…国王の奥の間cabinetで秘密会議が開かれたのが名称の起源であるが,公式の国政諮問機関であり内閣会議の母体でもある枢密院Privy Councilの権能を簒奪し,国王専制を担う君側の奸(かん)のたまり場になると非難,警戒された。ためにチャールズ2世は外交委員会という名の事実上の内閣廃止を,一度は宣言せざるを得なかった。近代政党partyの起源も同じチャールズ治下の,親王権派トーリーと,これに対抗するホイッグの抗争に求められることが多い。…

【王政復古】より

…共和制,武家政治などによって支配の座を追われていた君主政体が,ふたたび旧体制を回復すること。通常,O.クロムウェルの共和政治崩壊後のイギリスにおけるスチュアート朝のチャールズ2世の即位,ナポレオン1世没落後のフランスにおけるブルボン朝のルイ18世の即位,および日本の明治維新,以上三つの歴史的事例をさすことが多い。英仏の場合,旧王政を支えていた貴族や僧侶らを中心とする〈王党派〉勢力の存在,また王朝が体現する伝統の権威の存続が,〈復古〉実現の条件となっていたが,旧王政(絶対主義王政,アンシャン・レジーム)を打倒した〈市民革命〉後の社会においては,ブルジョアジー等の新勢力の台頭,および合理主義的思考の発展に伴う伝統の権威の低下のゆえに,文字どおりの旧体制の〈復古〉は困難となる。…

【晒首】より

…〈もの〉によるコミュニケーションである。1660年,ピューリタン革命のあと王政復古したイギリスのチャールズ2世が,父チャールズ1世処刑の責任者として,すでに死んでいるクロムウェル,アイアトンらの墓をあばき,首を矛(ほこ)に刺して晒したことは,すでに死んでいる者の首に意味をこめておりその典型である。 日本の近世には,晒首は中国にならって梟首(きようしゆ)とよばれ,また梟首した首を獄舎の門に懸けたので獄門ともよばれた。…

【スチュアート朝】より

…これがイングランドにおけるスチュアート朝の始まりである。 初期の2人の王ジェームズ1世とチャールズ1世は,イングランドの慣習を無視して専制を行い,議会との対立を深めてピューリタン革命となり,49年チャールズ1世は処刑され,以後60年まで王位は空位となってスチュアート朝は断絶した。この間1651年スコットランド王として戴冠していた息子のチャールズ2世は,60年の王政復古によって帰国し,復位した。…

【風習喜劇】より

…エリザベス朝のロンドンを舞台にしたベン・ジョンソンなどの喜劇にその根があるが,17世紀後半の王政復古期にフランス趣味に強く影響されて本格的に成立した。チャールズ2世の宮廷を中心とする社交界の人物の男女関係を中心的主題とし,副次的主題として金銭をめぐる争いがからむ。対象とした観客もロンドンの社交界の人々が主であった。…

【ロンドン・ガゼット】より

…イギリスの官報。チャールズ2世がペストの流行するロンドンを逃れてオックスフォードに宮廷を移していた1665年11月16日,《オックスフォード・ガゼットThe Oxford Gazette》として創刊される。革命期,1643年1月にチャールズ1世の宮廷で出された《マーキュリアス・オーリカスMercurius Aulicus》と《ロンドン・ガゼット》のいずれを最初の官報とするかについては論争があり,いまだ意見の一致をみていない。…

※「チャールズ2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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