イギリスの社会調査家。リバプール出身で,ブース船舶会社重役,王立統計学会会長(1892-94)を務めた。1886年から,ロンドン市内イースト・エンド地区で,貧困問題という観点から市民の生活状態の社会調査を実施し,1891-1903年の間に《ロンドン市民の生活と労働》(17巻)と題する膨大な調査報告を出版した。これは後の実証的社会科学研究における社会階層分析手法として大きな影響を与えた。彼の社会調査は,第1に特定の社会問題を明確に定義づけることによって,客観的な数字におきかえることを可能にし,その結果19世紀末のロンドン市民の30.7%の貧困層を検出した。第2は,単に問題の所在を示すのではなく,その因果関係を明らかにすることで,貧困の原因の32.8%が老齢,26.7%が疾病であったことを証明した。第3は,社会調査によって実証された問題解決のための実践活動である。彼は後に救貧法改正,老齢無拠出年金法の制定のため大きな役割を果たしている。ブースによって社会科学の実証方法として確立した社会調査は,後にB.ラウントリーらの貧困調査を生み,イギリスの福祉国家としての出発点となった。
執筆者:松崎 久米太郎
オーストラリア人宣教師で,晩年南部アフリカで活躍した平和主義者。1889年イギリスはニヤサランド(現,マラウィ)を保護領としたが,その直後の92年単身ニヤサランドに赴いてバプティスト教会の伝道本部を設立し,〈アフリカ人のためのアフリカ〉の旗印の下にシーレ地方を中心に布教活動を行った。その際チレンブエ(のちのチレンブエの反乱の指導者)をキリスト教に帰依させ,彼を連れてアメリカに渡ったことはよく知られている。アメリカで白人キリスト再臨派教会やものみの塔運動に近づいたブースは,その後白人による指導を拒否したチレンブエとたもとを分かち,一足先に南部アフリカに戻って布教を再開した。その活動はしばしばイギリス植民地当局との政治的衝突を引き起こし,1915年のチレンブエの反乱の際には共謀者の嫌疑を受けて追放され,貧窮の中でイギリスに逃れた。生涯のうち宗派を幾度か変えているが,アフリカ人の権利擁護者の立場は終始崩さなかった。
執筆者:星 昭
アメリカの俳優。イギリス出身で1821年アメリカに移住した著名な俳優を父とし,少年時代から父の一座で活躍した。悲劇を得意とし,ハムレット,ロミオ,オセローなどシェークスピア劇の役で知られた。イギリスに渡って当時の代表的名優ヘンリー・アービングと共演し,ヨーロッパで名声を得た最初のアメリカ人俳優といわれる。1869年にみずからの名をつけた〈ブース劇場〉をニューヨークに開き,詩劇の本拠とすべく運営に当たったが,この試みは経済的には失敗した。彼の兄や弟も俳優で,弟ジョン・ウィルクス・ブースJohn Wilkes Boothは,1865年に観劇中のリンカン大統領を暗殺した人物として記憶されている。
執筆者:喜志 哲雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの実業家、社会問題研究家、統計学者。都市社会学の先駆的研究者。リバプールに生まれる。実業家としては、いくつかの工場をおこすが、主として海運業界で活躍。社会問題と社会改良に強い関心を示し、協力者を得てロンドンの民衆の生活実態と生活様式を調査し、生活水準により8階級を区分、色彩を用いてロンドンの地域性を示す地図を作成した。ブースの調査研究の方法や成果は後のアメリカにおける都市研究の先駆をなすもので、パークによっても高く評価された。1908年に成立した養老年金条例にはブースの提言も生かされている。著書には『民衆の生活と労働』全2巻(1889~1891)などがあるが、調査研究の集大成である、貧困、産業、宗教の諸影響という三つのシリーズと結論からなる全17巻の大著『ロンドンにおける民衆の生活と労働』(1902~1903)が名高い。
[山岸 健]
救世軍の創始者。イギリスのノッティンガムに生まれる。13歳で父と死別、質屋で働き、15歳で回心を体験する。諸教派を遍歴したのち、1865年ロンドン東部のスラム街で貧民救済のための伝道を独力で開始した。野外集会、戸別訪問、聖書の販売、聖書講義、禁酒会、夜学、給食などの活動を精力的に展開し、その過程で軍隊風の制度・組織を採用して、1878年救世軍Salvation Armyを名のる。回心体験を重んじ、「救いと聖潔」を教理とし、これを「血と火」という標語にまとめた。礼典を無視したが、禁酒禁煙を含む厳しい生活規律を組織の規範とした。主著は『最暗黒の英国及其(その)救済策』(1890)で、真の救済は品性の改造と境遇の改善との二面よりなると主張した。1907年(明治40)には来日して朝野の歓迎を受けた。
[川又志朗 2018年1月19日]
アメリカの俳優一家。父ジュニアス・ブルタスJunius Brutus(1796―1852)はロンドンの有望俳優であったが、1821年渡米し、以後各地を巡演、酒と狂気に翻弄(ほんろう)されつつも本格派悲劇役者として実力を示した。息子のうち3人が父の一座の俳優となったが、ジュニアス・ブルタス・ジュニアJunius Brutus Jr.(1821―1883)は、俳優よりも劇場マネージャーとして活躍。エドウィン・トマスEdwin Thomas(1833―1893)はアメリカが生んだ最高の悲劇役者とうたわれ、ハムレットをはじめシェークスピア劇に優れた才能を発揮、その名声はヨーロッパにまでとどろいた。しかし父と弟の狂気、2人の妻の死など私生活では恵まれなかった。ジョン・ウィルクスJohn Wilkes(1839―1865)は俳優としての才能を開花させることなく、兄の名声への嫉妬(しっと)からか、狂信的愛国心からか、1865年観劇中のリンカーン大統領を暗殺し歴史に名をとどめることになった。
[一ノ瀬和夫]
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…都市生活の実態をふまえて,都市,都市の地域・地区,都市圏の現状,動態,変貌を解明しようとする特殊社会学の一分野。都市社会学の研究は,1920年代にアメリカで当初は人間生態学の観点から行われ,C.ブースの《ロンドン民衆の生活と労働》(全17巻,1902‐03),トマスWilliam I.Thomas(1863‐1947)とF.W.ズナニエツキーの共著《ヨーロッパおよびアメリカにおけるポーランド農民》(1918‐20),シカゴ学派のR.E.パーク,E.W.バージェス,R.D.マッケンジーによる共著《都市》(1925)が注目される。都市研究の観点と方向とを理論的に明らかにした《都市》は,その後の都市社会学研究の出発点となった。…
…1865年,イギリスのメソディスト教会牧師ブースWilliam Booth(1829‐1912)は,ロンドン東部貧民地区の飲酒,悪徳,賭博その他の罪過にあえぎ,教会からは遠ざかる住民のために〈クリスチャン・ミッション〉と呼ばれる熱烈な伝道組織を創設した。これが78年〈救世軍〉と改称し,軍旗と軍楽隊,軍服型の制服や規律正しい軍隊的秩序をもって,独自の伝道戦線を展開した。…
※「ブース」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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