パーク(読み)ぱーく(英語表記)Mungo Park

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パーク」の意味・わかりやすい解説

パーク(Robert Ezra Park)
ぱーく
Robert Ezra Park
(1864―1944)

アメリカの社会学者。シカゴ学派の中心的人物で、人間生態学都市社会学生みの親ミシガン大学を卒業し、高校教師、新聞記者、大学院生、大学助手、黒人教化事業など多彩な経歴を経て、50歳を過ぎてからシカゴ大学教授になった。その研究領域は広く、集合的行動、人種関係、人間生態学の3領域にわたるが、このうちとくに、動植物生態学に負うところの大きい人間生態学を社会学の一部門として確立し、これをもって都市社会学の基礎づけを行い、その名を知られた。E・W・バージェスとの共著『社会学の科学への序論』(1921)において、社会過程競争competition、闘争struggle、応化accommodation、同化assimilationの四つに分けてとらえたが、競争の過程ではコミュニティが、闘争、応化、同化の過程ではソサエティが、それぞれ形成されると考え、このコミュニティを対象に研究する科学が人間生態学であるとし、これが都市の研究にもっともよく適用できるとみたのである。競争は、社会的接触のない、無意識的、無自覚的な相互作用の過程であって、パークはこの相互作用を第二次的接触とよび、都市の基礎をなしているという。都市はそのような社会過程をもっとも有効に研究できる「実験室」であった。パークの人間生態学、都市社会学は多く門下の実証的な研究によって補強・継承され、ここにシカゴ学派は華々しく開花した。それは同時にアメリカ社会学の新しい伝統の始点となった。

[高橋勇悦]

『R・E・パーク、E・W・バーゼス著、大道安次郎・倉田和四生訳『都市――人間生態学とコミュニティ論』(1972・鹿島研究所出版会)』『R・E・パーク著、町村敬志・好井裕明編訳『実験室としての都市 パーク社会学論文選』(1986・御茶の水書房)』


パーク(Mungo Park)
ぱーく
Mungo Park
(1771―1806)

スコットランド生まれの探検家。1795年、当時、ヨーロッパ人にとっては謎(なぞ)とされていた、アフリカの三大河川の一つ西アフリカニジェール川の水源と河口を探る目的で、イギリスのアフリカ協会から西アフリカに派遣された。この探検で、彼はニジェール川湾曲部の商業都市ジェンネまで到達しただけで、当初の目的を達成できなかった。1805年、イギリス政府の援助のもとに再度この探検に挑み、ヨーロッパ人にとっては幻の都であったトンブクトゥに到達し、さらに1600キロメートルにわたりニジェール川の航行に成功したが、河口800キロメートル手前のブッサで現地住民と衝突し殺害された。

[原口武彦]

『森本哲郎・広瀬裕子訳『世界探検全集5 マンゴ・パーク ニジェール探検行』(1978・河出書房新社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パーク」の意味・わかりやすい解説

パーク
Park, Robert Ezra

[生]1864.2.14. ペンシルバニア,ルザーン
[没]1944.2.7. テネシー,ナッシュビル
アメリカの社会学者。ミシガン大学在学中,J.デューイの教えを受け,卒業後,ミネアポリス,ニューヨーク,シカゴなどで新聞記者や編集者をした。その後大学に戻り,ハーバード大学院で心理学を学び,1899年ベルリンへ留学し G.ジンメルに学んだ。翌年ストラスブール,ハイデルベルクへ移り,ここで学位論文『大衆と公衆』 Masse und Publikum (1904) を書いた。帰国後 1915年シカゴ大学教授となり,シカゴ学派の指導的社会学者の1人となった。彼はヨーロッパの群衆研究をアメリカ的に概念化して,集合行動や人種問題の領域での先駆的な仕事をした。また社会過程の重視から,都市における人間生態を明らかにし,E. W.バージェスらと組んで人間生態学としての都市社会学を樹立した。主著『社会学入門』 Introduction to the Science of Sociology (21,バージェスと共著) ,『都市』 The City (25,バージェス,R. D.マッケンジー,L.ワースと共著) 。

パーク
Park, Mungo

[生]1771.9.10. セルカーク,フォールシールズ
[没]1806.1頃.ブッサ
スコットランドの探検家,外科医。 1795年6月アフリカのニジェール川探検のためガンビアに到着。未知の内陸部に向け出発し,セネガル川上流域を横断。アラブの首長によって4ヵ月間幽閉されたが,96年7月単独で脱出,セグーでニジェール川に達した。帰路は南のルートをとり,97年6月出発地ガンビアのビザニアに戻った。 99年"Travels in the Interior Districts of Africa"を出版。2年後スコットランドのピーブルズに移り,医者を開業。 1805年政府探検隊の隊長として再度ニジェール川に向け出発したが,先住民に襲撃され,溺死。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報