パーク(読み)ぱーく(その他表記)Robert Ezra Park

デジタル大辞泉 「パーク」の意味・読み・例文・類語

パーク(park)

公園。遊園地
駐車すること。また、駐車場パーキング
[類語]公園遊園地

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精選版 日本国語大辞典 「パーク」の意味・読み・例文・類語

パーク

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] park )
  2. 公園・遊園地。多く、その名の一部として用いる。《 季語・春 》
    1. [初出の実例]「不動の滝だの、ルナ公園(パーク)だのと」(出典:明暗(1916)〈夏目漱石〉一八一)
  3. ( ━する ) =パーキング
    1. [初出の実例]「自動車のパークしてゐるところを引き廻ってゐる」(出典:春興倫敦子(1935)〈福原麟太郎〉倫敦消息)

パーク

  1. ( Robert Ezra Park ロバート=エズラ━ ) アメリカの社会学者。動植物生態学の方法を社会学的に導入して人間生態学的方法を確立、都市社会学の発展に大いに貢献した。著「都市」(E=W=バージェスと共著)など。(一八六四‐一九四四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パーク」の意味・わかりやすい解説

パーク(Robert Ezra Park)
ぱーく
Robert Ezra Park
(1864―1944)

アメリカの社会学者。シカゴ学派の中心的人物で、人間生態学や都市社会学の生みの親ミシガン大学を卒業し、高校教師、新聞記者大学院生、大学助手、黒人教化事業など多彩な経歴を経て、50歳を過ぎてからシカゴ大学教授になった。その研究領域は広く、集合的行動、人種関係、人間生態学の3領域にわたるが、このうちとくに、動植物生態学に負うところの大きい人間生態学を社会学の一部門として確立し、これをもって都市社会学の基礎づけを行い、その名を知られた。E・W・バージェスとの共著『社会学の科学への序論』(1921)において、社会過程を競争competition、闘争struggle、応化accommodation、同化assimilationの四つに分けてとらえたが、競争の過程ではコミュニティが、闘争、応化、同化の過程ではソサエティが、それぞれ形成されると考え、このコミュニティを対象に研究する科学が人間生態学であるとし、これが都市の研究にもっともよく適用できるとみたのである。競争は、社会的接触のない、無意識的、無自覚的な相互作用の過程であって、パークはこの相互作用を第二次的接触とよび、都市の基礎をなしているという。都市はそのような社会過程をもっとも有効に研究できる「実験室」であった。パークの人間生態学、都市社会学は多くの門下の実証的な研究によって補強・継承され、ここにシカゴ学派は華々しく開花した。それは同時にアメリカ社会学の新しい伝統の始点となった。

[高橋勇悦]

『R・E・パーク、E・W・バーゼス著、大道安次郎・倉田和四生訳『都市――人間生態学とコミュニティ論』(1972・鹿島研究所出版会)』『R・E・パーク著、町村敬志・好井裕明編訳『実験室としての都市 パーク社会学論文選』(1986・御茶の水書房)』


パーク(Mungo Park)
ぱーく
Mungo Park
(1771―1806)

スコットランド生まれの探検家。1795年、当時、ヨーロッパ人にとっては謎(なぞ)とされていた、アフリカの三大河川の一つ西アフリカニジェール川の水源と河口を探る目的で、イギリスのアフリカ協会から西アフリカに派遣された。この探検で、彼はニジェール川湾曲部の商業都市ジェンネまで到達しただけで、当初の目的を達成できなかった。1805年、イギリス政府の援助のもとに再度この探検に挑み、ヨーロッパ人にとっては幻の都であったトンブクトゥに到達し、さらに1600キロメートルにわたりニジェール川の航行に成功したが、河口800キロメートル手前のブッサで現地住民と衝突し殺害された。

[原口武彦]

『森本哲郎・広瀬裕子訳『世界探検全集5 マンゴ・パーク ニジェール探検行』(1978・河出書房新社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「パーク」の意味・わかりやすい解説

パーク
Mungo Park
生没年:1771-1806

イギリスの外科医,探検家。スコットランド生れ。エジンバラ大学で医学を修め,東インド会社の外科担当医としてインドに勤務したのち,ロンドンのアフリカ探検協会に探検を出願し,ニジェール川探検を委嘱された。1795年6月,海路でガンビア川の河口に達し,そこから内陸に向かった。ムーア人の捕虜となるなどの苦難ののち,96年7月20日,セグーで東流するニジェール川を発見した。しかし治安不良,健康,資金,同伴者などの問題のため,川くだりを諦めて帰路に着いた。帰国後,結婚し,外科医を開業したが,1803年にイギリス政府のニジェール川再探検の求めを受け,05年5月,ガンビア河口から内陸に向かった。同年8月,バマコでニジェール川に達し,ランチで川くだりをした。幻の都トンブクトゥには上陸せず,ひたすら出口を目ざしたが,06年初頭,下流のブーサで住民の襲撃を受けて死亡した。主著は《アフリカ内陸の旅》。
執筆者:


パーク
Robert Ezra Park
生没年:1864-1944

アメリカの社会学者。都市研究で知られ,移民の実態に即したマージナル・マン研究も著名。研究領域は人種,文化,新聞にもわたる。ミシガン大学とハーバードの大学院で学び,ヨーロッパに留学。学位論文はハイデルベルク大学に提出した《群集と公衆》。新聞記者としても活動し,シカゴ大学教授を務め,シカゴ学派の都市研究の中心となった。《都市》(共著。1925)などがある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パーク」の意味・わかりやすい解説

パーク
Park, Robert Ezra

[生]1864.2.14. ペンシルバニア,ルザーン
[没]1944.2.7. テネシー,ナッシュビル
アメリカの社会学者。ミシガン大学在学中,J.デューイの教えを受け,卒業後,ミネアポリス,ニューヨーク,シカゴなどで新聞記者や編集者をした。その後大学に戻り,ハーバード大学院で心理学を学び,1899年ベルリンへ留学し G.ジンメルに学んだ。翌年ストラスブール,ハイデルベルクへ移り,ここで学位論文『大衆と公衆』 Masse und Publikum (1904) を書いた。帰国後 1915年シカゴ大学教授となり,シカゴ学派の指導的社会学者の1人となった。彼はヨーロッパの群衆研究をアメリカ的に概念化して,集合行動や人種問題の領域での先駆的な仕事をした。また社会過程の重視から,都市における人間生態を明らかにし,E. W.バージェスらと組んで人間生態学としての都市社会学を樹立した。主著『社会学入門』 Introduction to the Science of Sociology (21,バージェスと共著) ,『都市』 The City (25,バージェス,R. D.マッケンジー,L.ワースと共著) 。

パーク
Park, Mungo

[生]1771.9.10. セルカーク,フォールシールズ
[没]1806.1頃.ブッサ
スコットランドの探検家,外科医。 1795年6月アフリカのニジェール川探検のためガンビアに到着。未知の内陸部に向け出発し,セネガル川上流域を横断。アラブの首長によって4ヵ月間幽閉されたが,96年7月単独で脱出,セグーでニジェール川に達した。帰路は南のルートをとり,97年6月出発地ガンビアのビザニアに戻った。 99年"Travels in the Interior Districts of Africa"を出版。2年後スコットランドのピーブルズに移り,医者を開業。 1805年政府探検隊の隊長として再度ニジェール川に向け出発したが,先住民に襲撃され,溺死。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パーク」の解説

パーク
Mungo Park

1771~1806?

イギリスの外科医,探検家。24歳のとき,アフリカ探検協会の委嘱を受け,ニジェール川探検に向かう。ガンビア川河口から西アフリカ内陸部を探検,詳細な記録を残す。1805年,再度ニジェール川探検に向かい,06年行方不明になる。

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百科事典マイペディア 「パーク」の意味・わかりやすい解説

パーク

英国のアフリカ探検家。1795年ニジェール川の流路探検に出発し,ニジェール上流バマコに達し1799年帰国。1805年再度の探検でニジェール河口まで下ろうとしたが住民に殺害された。

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世界大百科事典(旧版)内のパークの言及

【公園】より

…後者は,行政主体が風景地の保護または利用のために一定の地域を指定し,その地域内で風致および景観を維持ないしは利用するに際して障害となる行為を禁止したり制限したりもするもので,大部分の自然公園がこれに含まれる。また近年では,農村公園や環境保全のためにビオトープなどの維持活用のための公園,さらにはテーマパークなどのように目的的に特化した公園もある。
[公園の歴史]
 古代ギリシア,ローマの都市には広場があったが,公園,パークparkはなかった。…

【アフリカ】より

… 奴隷制廃止にいたるまでのあいだに,19世紀に入る前後からヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われていた。1795年から1806年にかけて2度も西アフリカのニジェール川上流付近を探検したスコットランドのマンゴ・パーク,1820年代にサハラ砂漠を横断し西アフリカにいたった同じスコットランドのヒュー・クラッパートンHugh Clapperton(1788‐1827)や50‐70年代に幾度も東アフリカを探検した宣教師デビッド・リビングストン,行方不明になったリビングストンをタンガニーカ湖畔のウジジで発見して名を知られ,さらにベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けてコンゴの植民地化に辣腕をふるったイギリス生れのアメリカ人ジャーナリスト,ヘンリー・M.スタンリーなどは,この時代の探検家を代表する人びとである。探検はもともと科学的興味や人道主義的使命感からはじめられたものであったが,これによってもたらされたアフリカ内陸部に関する情報は,19世紀後半におけるヨーロッパ列強の領土的野心をいっそう刺激する結果を生んだ。…

【ニジェール[川]】より

…4人の探検家がこの企ての中で失敗し,死亡した。協会派遣の5人目の探検家がM.パークであった。96年,彼はガンビア川から入ってニジェール川に達し,上流のジェンネまでを探検した。…

【都市社会学】より

…都市生活の実態をふまえて,都市,都市の地域・地区,都市圏の現状,動態,変貌を解明しようとする特殊社会学の一分野。都市社会学の研究は,1920年代にアメリカで当初は人間生態学の観点から行われ,C.ブースの《ロンドン民衆の生活と労働》(全17巻,1902‐03),トマスWilliam I.Thomas(1863‐1947)とF.W.ズナニエツキーの共著《ヨーロッパおよびアメリカにおけるポーランド農民》(1918‐20),シカゴ学派のR.E.パーク,E.W.バージェス,R.D.マッケンジーによる共著《都市》(1925)が注目される。都市研究の観点と方向とを理論的に明らかにした《都市》は,その後の都市社会学研究の出発点となった。…

※「パーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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