日本大百科全書(ニッポニカ) 「因果関係」の意味・わかりやすい解説
因果関係
いんがかんけい
ある事実と他の事実との間に原因と結果の関係、いいかえれば、ある事実から他の事実が引き起こされたという関係をいう。因果関係の概念は科学や哲学の領域でも論じられるが、法律上では、とくに刑事責任や民事責任など法的責任の範囲を客観的に限定するうえで、因果関係はきわめて重要な役割をもつ。すなわち、ある結果に対して行為者に法的責任を追及するためには、行為と結果との間に因果関係が存在することを要し、これが認められない場合には不可抗力にすぎないから法的責任を問いえない。
[名和鐵郎]
法律
法律上の因果関係をどのように理解すべきかについては、従来から、大きく条件説と相当説(または相当因果関係説)との対立がある。条件説によれば、法律上の因果関係は、行為と結果との間に「AがなかったらBもなかったであろう」という条件関係conditio sine qua non(ラテン語)があれば足りるものと解される。この見解に従えば、結果に対してなんらかの自然的条件をなすものはすべて因果関係ありということになる。たとえば殺人犯の母親は、この犯人の殺人に対して因果関係があることになる。これでは因果関係の範囲があまりにも広がりすぎる。そこで、条件説における因果関係を限定しようとする立場から、条件説における条件関係の存在を前提としつつ、このなかから、一般経験則に照らして、その行為からその結果が発生することが相当であるとみられる場合にのみ、法律上の因果関係を認めようとするのが相当説である。ただ、相当説にも、その相当性をどのような事情(資料)を基礎として判断すべきかについて次のような3説がある。すなわち、行為当時に行為者が現に認識していた事情または認識しえた事情を基礎とする主観説、行為当時に客観的に存在していた事情および行為後の事情でも予見可能なものをも含めて基礎とする客観説、行為当時、一般人に認識しえた事情および行為者が現に認識していた事情を基礎とする折衷説がそれである。
以上の諸説のうち、学説上は、従来、折衷的相当説が通説的立場を占めていた。そして実際、民事判例においては相当説が採用されている。しかし、刑事判例では、大審院やかつての最高裁判所は基本的には条件説的立場によるものとされてきた(ただし下級審には相当説によるものも少なくない)。1967年(昭和42)の米兵ひき逃げ事件最高裁判決が相当説を思わせる表現を用いたこともあって、その後、刑事判例も相当説に移行するのではないかという観測が広がった。しかし、最高裁は折衷的相当説を採用しないことを明言したうえで、実行行為における「行為の危険」(行為が、それ自体として犯罪結果を発生させる危険性を有すること)に着目して独自の見解を採用するに至っている。この見解によれば、因果関係とは「危険とその実現」、すなわち、行為の危険が結果に現実化したといいうるかという問題であるから、行為の危険が大きければ大きいほど、かりに行為後に介在した特殊な事情によって結果発生が早まったとしても、因果関係は否定されないことになる。このような最高裁の見解は、相当説の立場から、経験則による判断方法を示したものであって、相当説自体と矛盾するものではないと解されている。
なお、戦後の公害事件を契機として、科学的なメカニズムが解明されていない事案に関して「疫学的因果関係」、すなわち、疫学上の統計的手法を導入して、行為と結果との間に一定の蓋然(がいぜん)性が認められれば足りるとする考え方がみられる。このような疫学的因果関係論については、損害の公平な分担を目的とする民事事件については支持する者も多いが、刑事事件に関しては「疑わしきは被告人の利益」という基本原則に反するとして批判も根強い。
[名和鐵郎]
哲学
ヨーロッパ流の原因と結果の関係をいうが、原因・結果の概念は日常生活でもよく使われているものであり、改めて解説するには及ぶまい。ただし、哲学者のなかには、この概念の使い方に制限を付け加える者があるので、まずその点を紹介する。右手をあげようと思えば普通は右手があがるし、また空腹になればいらいらすることも多い。このように、精神の状態が原因となって身体の運動が結果し、また逆に身体の状態が原因となって精神の状態の変化が結果することは、普通はあたりまえのことと考えられている。しかし、古典物理学では、物体の運動を記述するときに精神に言及することはなく、すべて物質に関する概念だけを用いてこの記述を行う。ここから、物体の一種である身体の運動もまったく物質的なものであり、したがって心身の間に因果関係を認めるのは間違いだとする考えが生まれる。この考えを奉ずる哲学者にとっては、先ほど例にあげた心身の相関を、因果の概念を使わずに説明するには、どうしたらよいかという問題が生ずる。これが心身問題の一つの発端である。
よく、自然科学では、変化や運動を支配する法則を微分方程式の形で与える。このとき、初期条件が決まればすべての時刻における状態が決まることが多いので、初期条件を原因、注目している時刻における状態を結果ということがあるが、この初期条件は未来の時刻のものでもよいので、この際の原因・結果の概念は、日常生活のものとはすこしずれる。
さて、日常生活で、二つの事象A、Bの間に因果関係を認めるようになるのは、Aが生じたのちBが生ずるということが繰り返し観察されたのちであることが多い。しかし、このような繰り返しがあったからといって、将来もAに続いてBがおこると期待できるかといえば、かならずしもそうではないことは、よく経験されているところである。ここから、現在は確立されているようにみえる因果関係も、将来の経験によって破られるおそれがあるのではないかといわれることがある。とくに18世紀イギリスの哲学者ヒュームがこのことを指摘したので有名である。統計学は、この指摘を受け入れ、因果関係を相関関係に置き換えたうえで、相関関係の推定も絶対に正確ではないとし、さらにこの推定の精度をなるべく高めることを目ざしているといえる。このように、因果関係をめぐっては種々な立場から哲学的な議論が行われている。
[吉田夏彦]