貧民に対する国家の救済を定めた法律の総称。資本主義の初期に登場し、近代的な公的扶助法制が確立するまで、長い間貧困対策の主柱をなしてきた。救済の対象、方法などは時期、国により異なるが、保護・救済の権利性を否認し、その内容を慈善的な救済のレベルに押しとどめてきた点は、救貧法全体に共通した特徴である。
[横山寿一]
もっとも長い歴史をもつイギリスの救貧法Poor Lawは、本源的蓄積過程での大量の無産貧民の発生と、彼らの乞食(こじき)、盗賊、浮浪者への転化、そのことによる社会不安の増大、という事態を背景として生成した。ヘンリー8世の1538年法は、浮浪と乞食の禁止を主たる目的とするものではあったが、無能力貧民の存在を認め、治安判事による乞食の許可を定める形で貧民救済に着手した。同法は、一般に、もっとも初期の救貧法とされている。以後、貧民への弾圧と抱き合わせではあるが、労働の意志をもつ者、老人、無能力者などを労働意欲のない者とは区別し、彼らへの保護を拡大するとともに、救貧財源を救貧税poor rateによってまかなう方式が一般化していく。このような方向を集大成したのが1601年のエリザベス救貧法である。同法は、貧民・貧困児童の就業、労働不能者・老人・盲人などの救済を教区の責任で行うことを規定した。同時に、労働意欲のない貧民の懲治監House of Correction、監獄への収容を定め、従来の抑圧政策の継続も確認した。
市民革命は、絶対主義的救貧行政を崩壊せしめ、貧民救済を教区の自由裁量にゆだねていったが、そのもとで各地に広がっていったのが労役場(救貧院)workhouse制度である(1722年ワークハウス・テスト法によって制度化)。同制度は、労働能力のある貧民に労働させ、その利益を救済費にあてることを目的としていた。しかし、ここでの労働と生活は悲惨を極め、労役場は「恐怖の家」に転じ、また、おりからの産業革命の進展による新たな貧民層の増大にも直面して、限界が露呈した。1782年には、労役場の収容施設への改善と院外救済を認めたギルバート法が制定され、同法を基礎として、賃金補助、雇用斡旋(あっせん)などを実施するスピーナムランド制度Speenhamland Systemが登場した。しかしこれらも、低賃金を合理化し、救貧税を増大させ、かえって事態を悪化させる結果となった。
こうした救貧法の人道主義化を否定し、救援抑制策を強化する方向で抜本的な改革を断行したのが、1834年の新救貧法である。同法は院外救済を禁止し、ワークハウス・テストを制度化するとともに、貧民処遇の全国的統一化と救貧行政の中央集権化の方向を打ち出した。その厳格な実施は、労働者の反対にあって果たされなかったが、自立・自助を厳しく求めるその路線は、19世紀中葉以降も広く浸透し、同法は幾度か改正を経ながらも、1948年の国民扶助法制定まで存続した。
[横山寿一]
日本における公的貧民救済制度は、明治以前にもさかのぼれるが、救貧法とよびうる立法が登場するのは、明治維新により救貧行政が全国的に一本化されて以降のことである。その起点は1874年(明治7)の「恤救(じゅっきゅう)規則」に求められる。とはいえ、同規則は、極貧で扶養者のない者(生業不能の70歳以上の病人・廃疾者と13歳以下の幼少者)のみを対象とするという、極度に制限的なもので、いわば封建的救貧法規の継承にとどまるものであった。その後、1899年の窮民救助法案、1902年(明治35)の救貧法案など、幾度か改善が試みられたが、いずれも流産し、結局、実効もあがらぬまま半世紀余りも存続した。第一次世界大戦後の窮乏の拡大と社会不安の増大、世界恐慌によるそれらのいっそうの深刻化という事態により、新たな救貧制度の創設が避けられなくなり1929年(昭和4)に恤救規則が廃止され、救護法が制定された。同法により初めて公的扶助義務が確立し、救貧の責任は国にあることが明確にされた。しかし実質は、恤救規則の内容をやや拡張、明確化した程度で、依然として権利の否定と慈恵の思想を貫いた制限扶助の域を脱するものではなかった。
太平洋戦争の敗戦と連合軍による占領は、貧民救済にも新たな局面をもたらした。終戦直後、政府は、国民の深刻な窮乏に対処すべく、GHQ(連合国最高司令部)の覚書に基づき、「生活困窮者緊急生活援護要綱」を決定し、保護行政を実施し始めるとともに、既存の関係法規の統合化に着手した。1946年(昭和21)に生活保護法(旧法)が成立し、近代的な公的扶助法が実現した。同法は、保護の国家責任、無差別平等処遇、最低生活保障などを採用しつつも、他方で、不適格者の規定など、救護法の思想、原理を払拭(ふっしょく)しきれない側面をもっていた。そのため、新憲法制定後、憲法の規定との調整による再整備、保護基準の明確化などの必要が生じ、1950年に改正法(新「生活保護法」昭和25年法律144号)が成立し、旧法は廃止された。
[横山寿一]
『右田紀久恵・高澤武司・古川孝順編『社会福祉の歴史』(1977・有斐閣)』▽『小山路男著『西洋社会事業史論』(1978・光生館)』
16世紀以来,イギリスで行われた貧民救済のための法律。救貧法はヘンリー8世の1531年法から始まり,1601年法で完成した。ヘンリー8世が1536年に行った修道院解散は,中世的教会の貧民保護を停止させた。さらに,当時のエンクロージャーによる農村人口の減少,産業の発展,貨幣悪鋳などの諸要因とあいまって,貧民が大量に発生し,その対策が必要とされたのである。1601年のエリザベス救貧法は浮浪と乞食の禁止と処罰,児童と成人を問わず労働能力ある者の就業,無能力者の保護を末端の地域自治体である教区に命じた。実際の運営は教区の貧民監督官が当たり,必要な経費は救貧税として徴収した。この経費は当初は教会での寄付,個人的慈善によってまかなわれていた。それを固定資産税のような形で税金としたのは,救貧行政が世俗化したことを物語るものである。中央の命令や通知は,各地の治安判事を通じて,教区に伝えられた。救貧法の実施主体は教区であり,その自治権は強固であった。枢密院や議会は教区に命ずることはできても,強制はできなかった。貧民の処遇は,各教区の地主たちにまかされていた。初期の救貧法が浮浪と乞食を厳しく処罰したため〈血なまぐさい立法〉(マルクス)と呼ばれたのは有名である。
貧民,とくに労働能力のある貧民の処遇は救貧法上の大問題であった。教区はその貧民の維持に責任を負うというのが原則であったから,よその貧民が流入するのは問題であった。1662年の居住制限法(定住法)は貧民の居住地を制限するものであった。それと同時に,17世紀後半には貧民を労役場に収容して職業を与え,併せて国富を増大しようとする意見が盛んとなり,実際にも労役場マニュファクチャーは織布,糸紡ぎ,その他の生産のために産業革命期まで各地で断続して行われた。また,1722年法(労役場テスト法Workhouse Test Act)は労役場への収容を救済の条件とし,その自由を束縛し,嫌悪あるいは恐怖を与えて,救援申請を抑制しようとした。それとともに,同法は救貧法の実施を請負制とすることを認めたので,これが実施された教区では,貧困は恐怖と刑罰を意味することとなった。すなわち,請負人は労役場のみ,あるいは救貧行政全体を一定金額で請け負うのであるから,貧民への処遇をできるかぎり切り詰めて,利潤を得ようとしたのである。
このように過酷な貧民処遇に対して,人道主義的な農村地主はしだいに反対し始めた。とくに1782年のギルバート法では,労役場は保護施設と位置づけられ,請負制度は禁止された。さらに95年になると,ナポレオン戦争と凶作のため,農民窮乏が深刻となった。この年バークシャーで行われた賃金補助は,スピーナムランド制度と呼ばれ,一定基準以下の賃金労働者には救貧税から生活補助金を支出することとした。しかし,このような一見人道主義的改良は労働意欲を低下させ,救貧税負担を増大させる結果となった。1834年改正法は新救貧法と呼ばれるが,それは貧困を個人の道徳的責任とし,被救済貧民の状態は最低の独立労働者の状態以下にしなければならない(劣等処遇の原則)とした。また,中央に救貧法委員会を置き,教区連合体を指導監督することとしたのも,画期的な改革であった。
救貧法委員会は1847年に救貧法庁と改称され,71年には新設の地方自治庁に吸収されてその救貧法局となった。経済社会の激動と進展にもかかわらず,救貧法は貧民の汚名stigmaと恥辱なしには与えられることがなかった。1929年の地方自治法は公的扶助をカウンティとカウンティ・バラの議会の責任としたが,救貧法が廃止されたのは48年国民扶助法によってであった。
1834年法以来,貧困は個人の責任であり,救済を受けることは,人権の喪失であり,貧民の汚名を一生のあいだ負うという意識が一般民衆にしっかり植えつけられてしまった。救貧法は最後のしかも最悪のよりどころの意味しかもたなかった。貧困という社会的問題を政府や地方自治体は積極的に解決しようとはしなかった。また,国民も政府には期待しなかった。貧困問題に取り組んだのは,1870年代から20世紀にかけては慈善組織協会(COS(コス)/(シーオーエス))を中心とする私的な社会事業であったし,失業や疾病については1911年の国民保険法の制定や34年の失業法などの社会立法による対応が図られたのである。
執筆者:小山 路男
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…ヨーロッパの中世封建社会では教会などにより慈恵的な〈与える〉だけの施策がとられていたが,資本主義社会に入って大量の貧困者が発生し,国家など公的権力の責任において組織的対策がとられるようになった。
[イギリス]
絶対王政期に入り救貧法Poor Lawが生まれた。農村における囲込み(エンクロージャー),封建家臣団の解体,宗教改革にあたっての国王による修道院没収などにより封建的農奴制は崩壊し,多数の浮浪貧民が生じた。…
…その後,各国の社会保障が整備されるにともない,その比重は相対的には低下したものの,なおイギリス型とよばれる特色と独自性をもっている。
[相互扶助と自立・自助]
イギリスでは古くから教区を単位とする生活困窮者の扶助が,救貧法によって全国的に強制されていた。とくに農村地主の家父長主義に支えられて,地域共同体の相互扶助は強固な社会基盤を形成した。…
…ヨーロッパの中世封建社会では教会などにより慈恵的な〈与える〉だけの施策がとられていたが,資本主義社会に入って大量の貧困者が発生し,国家など公的権力の責任において組織的対策がとられるようになった。
[イギリス]
絶対王政期に入り救貧法Poor Lawが生まれた。農村における囲込み(エンクロージャー),封建家臣団の解体,宗教改革にあたっての国王による修道院没収などにより封建的農奴制は崩壊し,多数の浮浪貧民が生じた。…
…アングロ・サクソン人が異教徒であった古代の村落共同体の集会は,中世の教区の教区総会に転換されていき,近世以降,教会組織である教区が,地方行政の最小単位として利用されることとなった。例えば,ヘンリー8世は,出生(聖洗式),結婚(聖婚式),死亡(葬送式)を教区簿冊parish registerに記録させ,戸籍関係の業務を教区に行わせたし,エリザベス1世は,救貧法の施行に当たって,教会委員を役職上救貧法の定める民生委員に任命するように命じ,社会政策の担当者として教区を利用したのである。このようなことが可能であったのは,英国国教会が国教会であって,教会と国家とが組織的に一致していたからである。…
…居住地法,定住法,居住法とも訳されている。イギリスおよびアメリカの救貧法史上に現れた立法で,イギリスにおける1662年法以降の一連の法律が有名である。この立法の背景には,すべての住民は法的にいずれかの教区に所属し,住民は教区に対して各種の義務を負うが,災害や貧困という事態に際しては所属する教区からの保護を期待しうるという伝統的な考え方がある。…
…18世紀末のイギリス経済の長期にわたる好況,小麦価格の安定,労働者階級の生活水準の上昇という社会的な状況を背景とする,いわゆるイギリス救貧法の〈人道主義化〉を確認した1782年法の一般的呼称。提案者であるギルバートThomas Gilbert(1720‐98)の名に由来する。…
…これらはいずれも,労働力の保全をはかりながら,社会問題の温床となりうるものを除こうとする施策といえよう。 第3の政策系列は,救貧法に始まる生活保障にかかわる政策である。絶対王政のもとで始まったイギリスの救貧法は,貧民の浮浪化を抑止する一方で,教区の手を通じてその救済をはかろうとするものであったが,この制度は,市民革命以後,教区救済の原則を確認しつつ引き継がれることとなり,産業革命期には就業者をも含めて貧民に手当を支給する居宅救済のシステムが広がっていった。…
…もともと商品交換関係が社会全体を支配する資本制社会においては,その構成員たる市民には等しく財産権,自由権,平等権を内容とする市民権が保障され,彼らはそのことによって,自営労働たると雇用労働たるとを問わず,みずからの生命と生活を維持しうるものとされる。このため資本制社会の発展期を意味する産業革命以後,貧困は個人の能力や性格の欠陥によるものとされ,貧困者の救済は求援抑制的な救貧法と慈善事業による消極的なものにとどまっていた。しかしながら,資本主義が変質しはじめた19世紀末から20世紀初頭にかけて,貧困やその背景としての低賃金,失業,傷病の社会的な原因についての認識が深まるにつれ,これらの生活上の危険に対する施策が社会的責任において形成されはじめた。…
…しかしここに至るまでには長い歴史の経過が必要であった。
[救貧法とその展開]
社会保障の前史はまず極貧者の救済対策から始まる。大量の貧民が発生した絶対王制下のイギリスではエリザベス女王治下の1601年に救貧法を制定し,さらに産業革命の進展のなかで多くの変遷を経て1834年に改正救貧法が生まれ極貧者の救済が行われた。…
… 貧困や窮乏の救済や解消が福祉国家の第1の基本目標であることに異論はない。貧困を個人の責任とする自由放任主義下の救貧法思想から,貧困発生の理由のいかんを問わずナショナル・ミニマムを全国民に保障するという生存権思想が定着したのは,ベバリッジの〈社会保障計画〉によるところが大きい。これはもとより人道主義に根ざしているが,貧困に象徴される経済的不自由からの解放によって人々の自由が拡大するということも無視できない点である。…
…イギリス救貧法で有能貧民を組織的に稼働させるために,17世紀後半から設けられた施設。救貧院,懲治院などともいう。…
※「救貧法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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