フランスの彫刻家。モントーバンに生まれる。13歳のときから、家計を助けるため、家具職人の父の仕事場で家具の彫刻を手がけたが、まもなくその素質が高く評価され、モントーバン市から奨学金を受けてトゥールーズの美術学校に入学。さらに7年後、23歳でパリに出て、エコール・デ・ボザールでファルギエールに師事した。しかし、アカデミズムに飽き足らず2年後に中途退学し、ダルーのアトリエで働いたのち、1893年よりロダンの助手となった。ここでの15年間は彫刻家としてのブールデルの成長に大きな影響を与えたが、彼はロダンに感動しながらも追随することはなかった。ともに激しい情熱にあふれた生命を表現しながら、ブールデルの彫刻の組立ては、ロダンの法則と異なっていたからである。
ブールデルは確固たる骨組み、均衡のとれたマッス、単純化された面によって、モニュメンタルで構築性に富んだ堅固なフォルムのなかに、あふれるばかりの熱情と力動感を凝縮させた。この様式の出発点となるのが、ロダンがその彫刻的美しさに感動し、「君は私から離れて行く」と羨望(せんぼう)を込めて語ったと伝えられる『アポロンの首』(1900)であり、その頂点にたつと考えられるのが『弓をひくヘラクレス』(1910)である。この作品は彫刻界に大きなセンセーションを巻き起こし、ロダン、マイヨールと並んで、近代彫刻史におけるブールデルの位置を確固たるものとした。1929年10月1日、パリ近郊のル・ベジネで亡くなるまで、『アルベアル将軍記念碑』(1925)、『ミスキエビッチ記念碑』(1929)など、その様式にふさわしい多数の優れた記念碑を制作し、モニュメントの作家としての名を不朽のものとしている。そのほかの代表作に『果実』(1906)、『ペネロープ』(1909)、『瀕死(ひんし)のケンタウロス』(1914)、『サッフォー』(1925)、そして1888年から没年まで続いたベートーベンの肖像連作がある。パリのアトリエは現在ブールデル美術館となっている。
[黒田亮子]
『富永惣一解説『現代世界美術全集5 ロダン/ブールデル』(1971・集英社)』
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フランスの彫刻家。モントーバンの家具職人の家に生まれ,トゥールーズの美術学校に学ぶ。1884年パリに出てファルギエールA.Falguière,ダルーJ.Dalouに学ぶ。93年モントーバン市より〈戦没者記念碑〉の制作を委嘱される(6年後完成)。同年から約15年間ロダンのもとで助手として働く。ロダンの影響は,生涯彼の作品に痕跡をとどめるが,劇的な〈ゴシック主義〉を求めるロダンに対して,ブールデルは,ロマネスク彫刻やアルカイク期のギリシア彫刻の素朴さと力強さを求める。1910年に展示された《弓を引くヘラクレス》はその代表作である。彼の構築的なモニュメンタリティは,アルゼンチンから委嘱された《アルベアル将軍記念碑》(1914-17,ブエノス・アイレス)によって代表される。また《瀕死のケンタウロス》(1914)などには,深い情緒性が見られる。ベートーベン,アナトール・フランスなどの肖像彫刻も知られる。モンパルナスのアトリエは現在〈ブールデル美術館〉となり,多数の彫刻,デッサンが展示される。
執筆者:中山 公男
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