オランダの臨床医学者。1693年ハルデルウェーク大学で医学の学位をとり、ライデンで開業した。1701年ライデン大学講師に迎えられ、1709年臨床医学と植物学の教授となり、1718年から化学の教授を兼ねた。彼は実地臨床医学教育に力を注ぎ、世界で初めての「ベッドサイド・ティーチング」を男女各6、計12病床で行った。前歴の調査、疾病の経過、臨床観察を軽視せず、体温の測定、顕微鏡の臨床応用、尿の化学検査、死後の解剖などを重視した。当時彼の名声は高まり、各国の医学生が臨床講義に出席のため、ライデンに集まった。ヒポクラテスの教義を守り、物理学派や化学派に偏らず、折衷派であった。ライデン大学学長(1714~1715)、パリ王立科学アカデミー会員(1715)、ロンドン王立協会会員(1730)などとなった。門下には、スイスの生理学者A・ハラー、ウィーン医学派の開祖ファン・スウィーテンGerard Van Swieten(1700―1772)、その後継者ハエンAnton de Haen(1704―1776)、スウェーデンの植物学者リンネら、優秀な学者がいる。日本の蘭学(らんがく)に及ぼした影響も大きい。
[古川 明]
オランダの医学者。近代医学教育の創始者で,彼の影響は世界に及んだ。ライデン近くで生まれ,哲学ついで医学を修め,ライデン大学で医学を講じたのをはじめ,植物学や化学など幅広い領域に関心をもった。医学教授としてはベッドサイド・ティーチングを重んじ,顕微鏡・体温計の使用,脈拍の測定など計測的診断法を導入し,病理解剖をなした。汗腺を記載し,消化の研究を行った。経験,観察,実験を重んじ,折衷派の立場をとった。ヨーロッパ各地から学生が集まり,ライデン学派の名を高からしめ,弟子にハラー,ファン・スウィーテンらの有名人が輩出し,ウィーン,エジンバラ,ゲッティンゲン,フィラデルフィアなどに学統が及んだ。18世紀後半から19世紀にかけて蘭学の名で日本に輸入された西洋医学はこのライデン学派の学統を引くもので,当時の医書にはブールハーフェの名が蒲爾花歇としてしばしばみられる。主著に《医学指針Institutiones medicae》(1708)がある。日本では坪井信道がこの書を訳し(《万病治準》),新宮凉庭(りようてい)が抄訳(《血論》《生理則》)している。
執筆者:長門谷 洋治
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…尿素をUで表すと,HNO3・U,CaSO4・4U,H2C2O4・(1~2)Uその他多数の尿素複塩が知られている。
[尿素の研究史]
尿素を尿から最初に単離したのは,1725年ころオランダのブールハーフェHermann Boerhaave(1668‐1738)である。18世紀末にはルエルHilaire Marin Rouelleは,尿素が窒素を多く含み,食物代謝の最終産物ではないかと述べた。…
…しかし,社会的には恵まれず,R.deグラーフ,ステノらとの優先権争いをひきおこしたうえ,健康を害し,晩年は宗教団体の活動に没頭,デカルト的合理主義と神秘思想の間を揺れ動いた。生前,出版されることのなかった昆虫研究などの科学上の著作はH.ブールハーフェによって《自然の聖書Biblia naturae》(1737‐38)として世に出されたが,これには,赤血球の発見(1658),リンパ管における弁の発見(1664)などの業績が含まれている。【月沢 美代子】。…
…尿素をUで表すと,HNO3・U,CaSO4・4U,H2C2O4・(1~2)Uその他多数の尿素複塩が知られている。
[尿素の研究史]
尿素を尿から最初に単離したのは,1725年ころオランダのブールハーフェHermann Boerhaave(1668‐1738)である。18世紀末にはルエルHilaire Marin Rouelleは,尿素が窒素を多く含み,食物代謝の最終産物ではないかと述べた。…
※「ブールハーフェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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