日本大百科全書(ニッポニカ) 「植物学」の意味・わかりやすい解説
植物学
しょくぶつがく
botany
植物を研究対象とする生物学の一分野をいう。人類は古くから身近な植物を食用や薬用として利用しており、その種類を知ることから植物学は始まったといえる。これらの知識が初めて体系化されたのはギリシア時代であり、ここに学問の一分野としての植物学の出発点をみることができる。この時代の植物に対する知識は、今日の観点からすれば未熟ではあったが、すべて経験や観察に基づいたもので、分類、形態、薬効といった多方面にわたる考察が加えられている。テオフラストスはギリシア時代を代表する植物学者であり、植物学概論書の『植物誌』Historia plantarum、植物生理学書ともいえる『植物原因論』De causis plantarumなど、当時の知識を体系化して残している。やがてローマ時代になると、植物学は農業、薬用などの実用知識の追究に向けられていく。この傾向は中世ヨーロッパ、あるいはアラビアのイスラム文化圏へと伝えられ、引き継がれていった。
[金井弘夫]
植物学の近代化
植物学の近代化は、生物学の他の分野と同様にルネサンス以降から始まった。この近代化に大きく貢献したのは16世紀の顕微鏡の発明である。それまでは肉眼でしか観察できなかった植物の内部構造が、顕微鏡によって詳しく調べられるようになったわけである。17世紀になるとイギリスのグルーは『植物の解剖』Anatomy of Plantsを出版し、現代の植物形態学の基礎をつくった。分類学も、従来の人為的特徴に基づく分類から、形態的類似性を重視する自然分類の体系をとるようになっていった。リンネは植物名の表記に属名と種小名を併記する二名法によって種の所属を明確に示し、近代分類学の発展に大きく貢献した。また、植物生理学の基礎もこの時代につくられている。たとえば、イギリスのヘールズは1727年『植物の静力学』Vegetable Staticksを出版し、そのなかで養分の吸収、移動について述べているし、スイスのド・カンドルは『植物の生理学』Organographie végétaleなどの著作で、成長、栄養の現象などを整理し、解説を加えている。
18世紀は、航海術の進歩によって、世界各地(とくにいわゆる新大陸)の生物がヨーロッパへ紹介され、「旧大陸」のそれと比較された時代であった。ここから生命の分布、生態に対する関心が生まれ、植物の生育や分布が気候要因に支配されるということを研究する植物地理学が成立した。ドイツのフンボルトはこうした植物地理学の設立者の一人である。また、地質学上の考察から、従来信じられてきた「種の不変」への疑問が生じ、これがダーウィンの進化論を導き出すきっかけとなった。19世紀の生物学は、ダーウィンの『種の起原』に代表されるように、進化論の時代でもあった。この進化論の確立は、生物学の各分野における近代化のために大きな役割を果たしている。また、この時代には、遺伝学の重要な研究がメンデルによって行われている。メンデルは植物材料を用いて遺伝の仕組みを研究し、『植物雑種に関する研究』Versuche über Pflanzen-Hybridenとして1865年に発表したが、当時はだれも関心をもたず、1900年の再発見まで、この重要な研究は埋もれたままであった。
[金井弘夫]
現代の植物学
18世紀後半から19世紀にかけては、形態学、組織学、器官学が植物学の独立した分野として大成した時期であるが、20世紀は、さらに生物学にとって飛躍の時代であった。とりわけ著しい発展をみせたのは、生態学、細胞学、遺伝学である。
生態学は、ダーウィンのいう「生存競争」にみられる諸条件を研究する分野として始まったもので、現在では、植物と他の生物との関係、植物と環境との関係を追究しつつ、さらに個体・集団レベルの生命現象を扱う分野へと発展していこうとしている。細胞学、遺伝学は、歴史的には植物を研究材料として発展した分野であるが、20世紀後半、電子顕微鏡の発達、核内器官や遺伝子の物質レベルでの解析技術の飛躍的進歩によって、植物と動物の間には本質的な違いのないことが明らかとなり、生物共通の生命現象がその研究分野として扱われるようになってきている。これからの生物学は、この生物共通の生命現象の追究の方向にはあるが、なお、細胞壁の形成、独立栄養、成長様式といった植物独自の特徴に対する探究は、今後も継続した研究対象領域として扱われていくであろう。
[金井弘夫]
日本の植物学の歴史
日本の植物学の歴史は中国から伝えられた本草学(ほんぞうがく)に始まる。江戸時代以後、植物に対する研究がとくに盛んになり、明(みん)の李時珍(りじちん)の『本草綱目』による本草学を基礎にした植物学は、やがて日本独自の博物学的方向に進むようになった。日本の本草学の研究を大きく進めるために重要な役割を果たしたのは、徳川家光(いえみつ)のころ初めて江戸につくられた薬園である。これは現在も東京大学大学院理学系研究科附属小石川植物園として残っている。18世紀になると本草学は、学問的興味をもつ人々によって研究されるようになり、貝原益軒(えきけん)、飯沼慾斎(よくさい)、小野蘭山(らんざん)などの優れた学者が輩出し、日本独自の学問体系が成立していった。このような情勢のなかで、日本近代生物学の基礎が鎖国下の江戸時代に渡来した外国人たちによってつくられていった。なかでもフォン・シーボルトは宇田川榕菴(ようあん)、伊藤圭介(けいすけ)などの近代日本生物学の先駆者といえる人々に大きな影響を与えた。榕菴は日本最初の植物学書『西説菩多尼訶経(せいせつぼたにかきょう)』(1822)を著し、慾斎はリンネ式分類法による、花や実の解剖図を添えた本格的植物図譜『草木図説』(1856)を刊行した。近代日本植物学の出発は、1877年(明治10)、東京大学に生物学科が新設され、欧米の留学から帰朝した矢田部良吉(りょうきち)、松村任三(じんぞう)、三好学(みよしまなぶ)らによって分類学、形態組織学、生理生態学など植物学の各分野の講義が行われるようになってからである。その後、京都大学をはじめ、他の国公私立の大学にも生物学教室、植物学教室が設けられ、多くの植物学研究の場が設けられていった。
現在では、こうした大学研究室のほかに博物館施設、試験・研究所などにおいて植物学各分野の研究が行われているのが実情である。また、日本の植物相の解明にあたっては、各地在住の植物同好者の活動が大きな役割を果たしている。
[金井弘夫]