プルタルコス(読み)ぷるたるこす(その他表記)Plutarchos

デジタル大辞泉 「プルタルコス」の意味・読み・例文・類語

プルタルコス(Plūtarchos)

[46ころ~120ころ]古代ギリシャの哲学者著述家伝記哲学自然科学など広い分野にわたる著作活動を行った。著「英雄伝対比列伝)」「倫理論集」など。プルターク

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「プルタルコス」の意味・読み・例文・類語

プルタルコス

  1. ( Plūtarkhos ) 古代ローマ帝政期のギリシア人の哲学者・著述家。伝記「プルターク英雄伝」と「倫理論集」を著わした。英語名プルターク。(四六頃‐一二〇頃

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プルタルコス」の意味・わかりやすい解説

プルタルコス
ぷるたるこす
Plutarchos
(46ころ―120ころ)

古代ギリシア最大の伝記作家、エッセイスト。日本では英語式の呼び方プルタークでよく知られる。当時ギリシアはローマの属州であり、彼の幼・少年期はネロの治世にあたり、ネロに劣らず悪名の高いドミティアヌスの治世は、彼の30、40代にあたっている。生地は、ローマからみればギリシアの片田舎(かたいなか)のカイロネイア。生涯の大半をここで過ごす。生家はこの地方では有力な家柄であった。10代の終わりにアテナイへ出て、アカデメイア派のアムモニオスについて哲学、自然学を学ぶ。したがってプルタルコスもプラトン学徒といえるが、彼がとくに関心をもったのは弁論術、倫理、宗教で、この方面ではペリパトス派やストア派の影響も受けている。要するに折衷派の常識人といえよう。

 しばしば旅に出、ローマへも生涯に何度か行っている。カイロネイア代表として儀礼的に訪問したようだが、この機に何人かのローマ政府要人の知己を得た。ただし、タキトゥスや小プリニウスら当時の代表的知識人とは交渉をもたないのは惜しまれる。またドミティアヌス帝が多くのストア派学者を迫害したとき無事でいられたのは、彼がストア派を自任してはおらず、カイロネイアに引っ込んでいたという理由のほかに、彼自身被征服者の賢明な身の処し方を心得ていたためといえる(以上は彼のエッセイ『為政者への忠告』による。しかし、彼の故郷カイロネイアは、かつて古典ギリシアの滅亡を決定的にした対マケドニアの血戦場であり、このことに全著作を通じて一言も触れていないのは理解に苦しむ)。

 彼のおびただしい著作のおもなものはすべて50歳以後の執筆という事実は目をひく。なかでも重要なのは『対比列伝』(通称『英雄伝』)だが、このほかに『倫理論集』の名で一括されている多数(79編現存)のエッセイがある。内容は、プラトン哲学の諸問題を扱ったもの、ストア派を指弾するなどの重い論調から、鶏と卵とどちらが先か、あるいは結婚48訓などの軽妙なものまで、対象は多方面に及んでいる。文章は名文にはほど遠い饒舌調(じょうぜつちょう)だが、話すことを楽しんでいるプルタルコスの気分が読者に伝わってくる。文学史的に注目されるのは、彼のエッセイ集に触発されて、ルネサンス期に2人の思索家それぞれ重要なエッセイを書いている事実である。2人とはモンテーニュベーコンである。

[柳沼重剛]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「プルタルコス」の意味・わかりやすい解説

プルタルコス
Ploutarchos
生没年:46ころ-120ころ

ローマ時代に活躍したギリシアの思想家で伝記作家。英語表記はプルタークPlutarch。ギリシアのボイオティア地方のカイロネイアの名門の出身で,アテナイに学び,エジプトや小アジアを旅したのちローマで哲学を講じ,将来皇帝となるハドリアヌスの教育にも当たった。ローマでは多くの名士と近づきになり,皇帝から要職も与えられたらしい。その後故郷に帰って著作の生活を送ったが,神託で有名なデルフォイの神官の職も長くつとめた。数多くの作品を書いたと伝えられるが,現存する作品で彼の真作と考えられるものは80に満たない。しかしながらその中には有名な《英雄伝》の大作があり,そのほかにも《倫理論集(エティカ,モラリア)》と呼ばれる膨大な著作集がある。後者は道徳ばかりでなく,政治,宗教,文学,音楽など広い範囲にわたって扱った著述で,その思想は深遠なものではないが堅実であり,豊かな教養を示していることからルネサンス期を中心として後世への影響が大きい。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「プルタルコス」の意味・わかりやすい解説

プルタルコス

ローマ時代のギリシアの著述家。英語ではプルターク。カイロネイアの名門の出。ローマで哲学を教えた後,故郷で著作生活を送ったが,一方ではデルフォイのアポロン神殿の神官ともなった。ギリシアとローマの偉人たちの伝記集《英雄伝》が有名。《倫理論集》はエッセーの祖であり,モンテーニュを魅了して彼の《随想録》の手本となった。道徳だけでない,人生のあらゆる面にわたる穏やかで楽しい話や著述にみち,豊かな教養と堅実な思想を示している。
→関連項目オシリス

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プルタルコス」の意味・わかりやすい解説

プルタルコス
Ploutarchos

[生]46頃.カイロネイア
[没]119以後
ギリシアの倫理学者,伝記作家。アテネで学び,少くとも2度ローマを訪れて倫理学を講じ,執政官の職にもついたことがあるらしい。のちにアカイアの地方長官としてギリシアに住み,各地を訪れたが,おもに故郷カイロネイアに開いた学校で講義した。現存する作品は『英雄伝』 Bioi Parallēloiと,道徳,宗教,物理,政治,文学,教育などに関するエッセー 83編をまとめた『倫理論集』 Ethika。

プルタルコス[アテネ]
Ploutarchos of Athens

[生]?
[没]431/432
ギリシアの哲学者。アテネのプラトン派の指導者。プロクロスの師。プラトンの多くの著作およびアリストテレスの『霊魂論』の注釈を書いたが残っていない。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「プルタルコス」の解説

プルタルコス
Ploutarchos[ギリシア],Plutarch[英]

50頃~120頃

古代ローマ帝政期のギリシアの哲学者,著述家。カイロネイアの出身。デルフォイの神官。プラトン哲学を奉じ,博覧多識で,ローマ,アレクサンドリア,ギリシア各地を巡歴した。著書には『対比列伝(英雄伝)』『道徳論集』がある。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「プルタルコス」の解説

プルタルコス
Plutarchos

46ごろ〜120ごろ
帝政ローマ期のギリシアの伝記作家・哲学者
英語名プルターク(Plutarch)。プラトンの影響を受けて廉潔を重んじ,その『対比列伝』と『道徳論集』は,ルネサンス以後の文学・思想に対する影響が大きい。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のプルタルコスの言及

【英雄伝】より

…ギリシアの著作家プルタルコスの代表的な伝記作品。日本では一般に《英雄伝》の名で親しまれているが,原題の意味からは《対比列伝》の訳語のほうが正確である。…

【オシリス】より

…起源は春ごとに復活する植物(とくに穀物)の霊の神格化されたものとみられ,ナイルの増水の神ともされたが,王権理念と結びついたオシリス神話の形成によって,エジプト人の来世信仰の中核に発展し,太陽信仰と並ぶエジプト宗教の基本要素となる。神話の内容はのちギリシア人プルタルコスの《イシスとオシリスについて》にまとめられている。オシリスは大地の神ゲブと天の女神ヌートの子で,エジプト王として善政をしくが,弟である邪神セトにねたまれて殺され,ばらばらにされて投げ捨てられる。…

【ギリシア文学】より

…アウグストゥス帝の時代に著された作者不詳の(ロンギヌス作と誤伝されている)《崇高について》と題する小論文も,かつてギリシア文学の代表的な担い手たちが目ざしてきたものを一つの理念としてとらえて,これを〈崇高〉という概念でとらえ,これを語り明かそうとしている。ギリシア・ローマの歴史を一つの偉大な人類の体験として眺観する視点を掲げているのはまた,カイロネイアの人プルタルコスである。古代人の倫理的判断と生きざまをつづった《英雄伝(対比列伝)》は,古代伝記文学の伝統の頂点に位置づけられる。…

※「プルタルコス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android