イタリアの金工家、彫刻家、画家。父ミケーレ・ディ・フランチェスコ・チオーニはフィレンツェの煉瓦(れんが)製造業者。姓はおそらく師の金工家ジュリアーノ・デル・ベロッキオから受け継ぐ。かつてドナテッロから彫刻を学び、バルドビネッティから絵画を習ったとされ、近年では同時代の大理石作家との関係が説かれるが、初期の活動については確かでない。1460年代の後半からメディチ家の庇護(ひご)も受け、大規模な工房を営んでフィレンツェ美術界に指導的役割を演じた。サン・ロレンツォ聖堂にメディチ家ゆかりの2基の墓碑、別荘ビラ・カレッジの噴水として青銅の『イルカを抱く小童像』(現在パラッツォ・ベッキオ)、フィレンツェ大聖堂洗礼堂の銀製祭壇の一部浮彫り、ピストイア大聖堂内のフォルテグエリ記念像の制作などがある。
彼はブロンズ、大理石、テラコッタなど、各種の材料を用いて高度な技法を開発し、生動感豊かな写実的作風に品位を与え、工芸的な装飾性を加味した。1476年ごろの青銅像『ダビデ』(バルジェッロ美術館)はドナテッロの先行する作品と比較して、知性的な描写力と洗練された明暗処理、鋭敏で貴族的な感受力を示すベロッキオ独自の芸術的個性を代弁している。また83年にオルサンミケーレ聖堂外壁の龕(がん)に設置された青銅群像『キリストと不信の聖トマス』は、2人の人物にそれぞれ荘重な表情や優雅な姿態を表現し、両者の対面に旋回を加えた動的な構成と調和のとれた比例関係を達成した傑作。晩年、ベネチア政府の依頼で大作『コレオーニ将軍騎馬像』の原型を制作した。彼の客死で鋳造と台座の完成はレオパルディAlessandro Leopardi(?―1522/23)に託されたが、工房での科学的探究の成果や解剖学的知識を駆使した人馬の力感あふれる勇壮な運動表現によって、当代の堅実な自然主義を代表する記念碑となっている。一方、絵画活動は『キリストの洗礼』(ウフィツィ美術館)など、彫刻に比べると限られるが、この絵の共作で話題となったレオナルド・ダ・ビンチをはじめ、ペルジーノ、クレディLorenzo di Credi(1459―1537)ら、画家として有能な多くの門人を輩出させた。
[上平 貢]
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イタリアの画家,金工家,彫刻家。フィレンツェに生まれ,金工の修業ののち,おそらくドナテロに彫刻を学んだと思われる。15世紀後半のフィレンツェで最も繁盛した工房の一つを経営し,多数の弟子とともにメディチ家をはじめとする顧客のためにあらゆる種類の美術品を制作。彼の作と断定できるきわめて少数の絵画の一点《キリストの洗礼》は,晩年の弟子レオナルド・ダ・ビンチが画中の一天使を描いたとされる。彫刻ではブロンズを得意とし,卓越した技巧に裏づけされた,軽快な写実性と洗練された優雅さを兼ね備えた作風を示す。終始ドナテロを意識し,乗り越えようとしたと思われるが,彼の彫刻は基本的に繊細かつ流麗で,ドナテロの激情的なドラマ性とは異質のものであった。ベロッキオの多才と優美さは,レオナルドにおいて,より内面的な資質として継承された。
執筆者:鈴木 杜幾子
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…いずれにしても,聖母がきわめて多く描かれ,母性なるものが彼の重要な主題であったことは確かである。父親がレオナルドを,15歳のころフィレンツェのベロッキオの工房に入れたのは,すでに少年が動物や植物や人間などを鋭く観察し描きとどめる才能に秀でていたからであった。ベロッキオの工房は,絵画のみならず彫刻,建築,各種の工芸デザインや工学的技術を擁する多角的工房であったため,レオナルドはそこでそれらの基礎的知識をすべて習得し,1472年画家組合に加入したのちも76年まで同工房にとどまった。…
※「ベロッキオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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