ドイツ生まれのアメリカの物理学者。フランクフルト大学、ミュンヘン大学で学び、1928年ゾンマーフェルトの下で学位を得た。その後フランクフルト、シュトゥットガルト、ミュンヘン、チュービンゲンの各大学で理論物理学を教えた。しかし、ナチスの支配によって地位を失い、1933年イギリスへ渡り、マンチェスター大学、ブリストル大学に勤め、1935年にはアメリカに渡り、コーネル大学物理学助教授、教授を務めた。1941年アメリカに帰化。第二次世界大戦中は、ロス・アラモス科学研究所理論物理学部長として原爆開発(マンハッタン計画)の指導的役割を果たした。電子対発生、核力、核子散乱理論、質量公式など原子核物理学の開拓に貢献した。とくに1935年から1938年にかけての核反応の研究はボーアの複合核模型をより発展させたもので、その一連の成果がまとめられた論文は、原子核物理学の標準的なテキストとして15年近く利用された。また、1938年から1939年にかけて、ガモフ、ワイツゼッカーらの星の熱核融合反応の理論を発展させ、炭素‐窒素サイクルが太陽における正しいエネルギー生成率を与えることをみつけた。第二次世界大戦後は、原子核物質、中性子星間物質の理論や、π(パイ)中間子の散乱と電磁波によるその発生についての研究に携わった。1961年には、原子力の利用と開発に対してフェルミ賞が、そして、核反応や星のエネルギーの生成についての研究に対し、1967年ノーベル物理学賞が与えられた。また、1956年から1964年まで大統領科学諮問委員を務め、行政レベルでの科学活動にも貢献した。1954年のオッペンハイマー事件では、一貫してオッペンハイマーを擁護する立場をとったことで知られている。
[小林武信 2018年11月19日]
『A・ゾンマーフェルド、H・ベーテ著、井上正訳『固体電子論』(1976・東海大学出版会)』▽『佐藤文隆訳「核反応理論への貢献――星のエネルギー生成の発見」(ノーベル財団著、中村誠太郎・小沼通二編『ノーベル賞講演 物理学10』所収・1978・講談社)』▽『H・A・ベーテ、W・ハイゼンベルク他著、青木薫訳『物理学に生きて――巨人たちの思索の軌跡』(1990・吉岡書店/改訳版・ちくま学芸文庫)』▽『Hans Albrecht BetheThe Road from Los Alamos(1991, American Institute of Physics, New York)』
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