日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボズネセンスキー」の意味・わかりやすい解説
ボズネセンスキー(Andrey Andreevich Voznesenskiy)
ぼずねせんすきー
Андрей Андреевич Вознесенский/Andrey Andreevich Voznesenskiy
(1933―2010)
ソ連・ロシアの詩人。モスクワに生まれ、モスクワ建築大学を卒業。絵にも優れた才能を示す。詩はパステルナークに師事し、1958年に作品を発表し始める。1960年には『モザイク』と『放物線』の2冊の詩集を刊行、エフトゥシェンコやアフマドゥーリナなどとともに、1960年代のソ連における詩の新しい波の代表者となった。詩法の面では1960~1970年のソ連のもっとも前衛的な詩人の一人であり、複雑で独創的な隠喩(メタファー)、新造語、視覚的イメージ、押韻、音響効果などを駆使するため、保守的な批評家からは「形式主義者(フォルマリスト)」として批判されたが、20世紀初頭のモダニズム(パステルナーク、マヤコフスキー、フレーブニコフら)と現代をつなぐ貴重な存在であることは疑えない。W・H・オーデンは彼を評して、「詩というものがことばによる工芸品であり、テーブルやオートバイと同様に熟練した腕でしっかりと組み立てられねばならないことを知っている詩人」といった。朗読の名手でもあり、1960年代には満場の大聴衆を熱狂させた。詩集はほかに『叙事詩「三角形の梨(なし)」からの40の叙情的逸脱』(1962)、『反世界』(1964)、『アキレスの心臓』(1966)、『まなざし』(1972)、『誘惑』(1978)など10冊以上を数える。また、『反世界』を自ら戯曲化したり(1965)、作曲家のシチェドリンとともに『ポエトリア』(1975)という新しいジャンル(詩の朗読と合唱付きオーケストラの組合せ)を試みたりもしている。また回想、エッセイ、フィクションを融合させた意欲的な長編散文作品『O(オー)』(1982)は反響をよんだ。ペレストロイカ期には改革派の旗手として活躍、当時のソ連の社会問題を取り扱った長編詩『溝』(1987)を発表した。
[沼野充義]
『ボズネセンスキー著、赤松徳治訳『愛は痛みをこめて』(1975・国文社)』▽『草鹿外吉訳『O』(『芸術の青春』所収・1984・群像社)』
ボズネセンスキー(Nikolay Alekseevich Voznesenskiy)
ぼずねせんすきー
Николай Алексеевич Вознесенский/Nikolay Alekseevich Voznesenskiy
(1903―1950)
ソ連の政治家で経済学者。ツーラ県に生まれ、1919年に共産党に入党。共産主義大学および赤色教授学院(1928~1931)に学び、卒業後、同学院講師。1935年に経済学博士号取得後、レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)市計画局で働いたが、1938年ゴスプラン議長となり、副首相(1939~1941)、ついで第一副首相(1941~1950)兼任。1941年政治局員候補、1947年政治局員。この間、1943年に科学アカデミー会員となる。戦時中の経済指導の経験に基づく著作『大祖国戦争期のソ連邦戦時経済』(1947)は、スターリン賞を受け、国の内外で知られた。1949年3月「レニングラード事件」に連座して追放、1950年9月処刑されたが、第22回党大会(1961)で名誉回復された。
[佐藤経明]