今日一般には、アメリカ流の、歌、踊り、寸劇などを雑然と組み合わせた大衆的な娯楽演芸をさし、イギリスではバラエティとよばれている。しかし、元来は、16世紀フランスで流行した歌のことで、語源は15世紀、ノルマンディーのビルVireという地の砧(きぬた)打ち職人オリビエ・バッスランが風刺的な自作のシャンソンを歌っていたのが谷val(複数はvaux)を越えて各地に広まったことから、vaux de Vireさらにvaudevilleと転じたものという。また、以上は作り話で、風刺を意味するvoix de ville(町の声)に由来するとの説もある。当初は酒宴や仕事の合間に歌われるシャンソンであったが、のち、それらの風刺的な歌や踊りが演劇に取り入れられ、18世紀にはル・サージュらによるボードビル入り喜劇が流行、ボーマルシェなどにも影響を与えた。19世紀にはラビッシュの『イタリアの麦わら帽子』のごとき名作も現れたが、やがてオペレッタに座を奪われ、のち歌の入らない軽喜劇をさすようになった。
一方アメリカでは、南北戦争以前からミンストレル・ショーminstrel showとよばれる演芸のほか、イギリス本土から移入されたバラエティを祖とする卑俗なボードビルがあったが、ボードビルの父といわれたトニー・パスターTony Pastor(1837―1908)が、1881年ニューヨークに開いたフォーティーンス・ストリート劇場で、従来の野卑なものに対して、本格派の歌手、コメディアン、曲芸師などを使った正統的で洗練されたショーを公演して成功、以後この種のものが主流となり、1890年から1920年にかけて全盛期を迎えた。1913年に開場したニューヨークのパレス劇場は全米一のボードビル専門劇場として、エド・ウイン、エディ・キャンター、アル・ジョルソンらが活躍した。しかし舞台でのボードビルは30年代以降ラジオ、映画、そしてテレビにとってかわられた。アメリカでのテレビ演芸番組はエド・サリバン・ショーをはじめ、ほとんどがボードビルの継承である。日本には大正中期に移入され、浅草オペラにも取り入れられたが、バラエティ、バーレスクとの境界はあいまいである。ボードビルを演ずる人をボードビリアンと称するが、コメディアンとの区別はつけにくい。
[向井爽也]
『R・ナイ著、亀井俊介他訳『アメリカ大衆芸術物語』(1979・研究社出版)』
フランス喜劇の一形態。その起源については諸説あって特定できないが,14世紀末から15世紀初頭,北フランス,ノルマンディーのカルバドス地方にビールVireという村(市として現存)があり,そこの一職人が歌が得意で,彼の作った風刺的な歌が谷を越えて各地に広まり,ボー・ド・ビールVau de Vire(vauはval,〈谷〉の意)と称された。やがてそれはボー・ド・ビルvaux de villeもしくはボア・ド・ビルvoix de ville(町の声)に転化し,16世紀には文字どおり民衆が酒席で歌うシャンソン(リフレインを伴う)となって普及した。したがってボードビルの原義は酒席で歌われるいささか猥雑(わいざつ)なポピュラーソングであり,この形で18世紀の終りまで続いた。しかし,演劇との関連はそれ以前にさかのぼり,18世紀初めにルサージュが縁日芝居でボードビル付喜劇comédie à vaudevilleを試みている。一方,ボードビルは音楽との結び付きを深め,M.J.スデーヌ,C.S.ファバールらの試みにより,それはやがてオペラ・コミックの誕生となる。
ボードビルの喜劇の一ジャンル(すなわち歌と踊りを伴った喜劇)としての確立は,オペラ・コミックのオペラとしての確立と時期を同じくする。19世紀前半にボードビルはメロドラマと並んで最盛期に達し,当時の代表的劇作家スクリーブE.Scribe(1791-1861)の書いた約350編の作品のうち多くはボードビルである。やがてこのジャンルは衰退をたどり,風俗喜劇にその地位を奪われるが,同時にボードビルの形態にも変化が生じ,筋立てのこみ入った,ややドタバタ風の軽い喜劇全般をボードビルと称するにいたった。19世紀後半のラビッシュではまだ歌付きの台詞(せりふ)が残っているが,20世紀前半のボードビル作家G.フェードーになると歌はほとんど聞かれなくなる。その代り,観客の意表をつく場面の展開と軽妙な台詞による風刺と笑いの効果はかえって強められ,現代の笑劇であるボードビルの地位は依然として確保されている。今日,アメリカやイギリスで隆盛を極めるミュージカル・コメディ(ミュージカル)は,伝統的ボードビルを現代化し,音楽を重視した新形式の喜劇である。
執筆者:大久保 輝臣
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…既成演劇の枠を外した芝居やレビューのスタイルをとり入れた構成が好まれて,日本古来の伝統とは無縁なジャンルが隆盛をきわめることになった。大正の半ばから隆盛となった〈浅草オペラ〉が震災によって消えたあとに,やはり庶民の娯楽・芸術として登場したのが軽演劇で,それは日本版ボードビルということもできる。
[エノケンとロッパの時代]
まず,29年に浅草公園水族館2階の演芸場で,エノケンこと榎本健一を座長とするレビュー式喜劇団〈カジノフォーリー〉が旗揚げした。…
…ちなみに古典主義劇作術がヨーロッパの規範であったことの痕跡は,たとえばモーツァルトのオペラ・セーリアにうかがうことができる。それに反して,マリボーの喜劇(彼は,L.リッコボーニを団長として再びパリに定住していたイタリア喜劇団のために,そのコメディア・デラルテの〈役者体〉を使って,《偽りの告白》《二重の心変り》等の残酷なまでに洗練された恋の駆引きの遊戯を書く),A.R.ルサージュの〈風刺歌付喜劇(ボードビル)〉をはじめとする市の〈縁日芝居〉(市はサン・ジェルマンやサン・ローランの修道院領内で2ヵ月近く開かれた),そのような〈縁日芝居〉のダイナミックな喜劇性と危険な官能的遊戯を取り返した《フィガロの結婚》によって大革命前夜のパリを沸かせたボーマルシェ,古き悲劇に代わる〈市民劇(ドラム・ブルジョア)〉の理念を提唱し,また俳優という両義的存在について哲学的反省を展開したディドロ(《俳優についての逆説》が書かれた時代は,悲劇女優クレロン嬢の《回想録》を生む時代でもあった),これらが18世紀の変革の側にいる。特に市の芝居の隆盛の結果として,1759年以降,パリ北東の周縁部に当たるタンプル大通りに常設小屋が急増し,市の芝居で当たっていた〈オペラ・コミック〉をはじめとする新旧さまざまな舞台表現の場となり,特に大革命の〈人権宣言〉によって劇場開設権が万人のものと認められて以来(もちろん,まったくそのとおりにいったわけではなかったが),都市の周縁部の〈劇場街〉が,修道院の市のごとき〈宗規的時空〉からまったく自由に,かつ公式の劇場のような国庫補助も受けずに出現し隆盛を誇ったことは,フランス演劇史上の特筆すべき大事件であった。…
…さらに,内容が劇的であるものについては〈ミュージカル・プレー〉〈ミュージカル・ドラマ〉,悲劇的なものについては〈ミュージカル・トラジディ〉,幻想的なものについては〈ミュージカル・ファンタジー〉,寓話的なものについては〈ミュージカル・フェーブル〉などという呼び方が生まれた。最近では,大衆芸能の味わいをもつという意味で,〈ミュージカル・ボードビル〉とか〈バーレスク・ミュージカル〉とかいった言葉もできている。しかし,これらはいずれも明確な定義をもつ呼称ではなく,個々の作品について作者や研究者によってかなり恣意的に使われているのが実情であり,語源的にはあくまでもミュージカルはミュージカル・コメディの略である。…
…ほかに同時代のフランスでもイギリスのものを模してミュージック・ホールが建てられ,1869年開場のフォリー・ベルジェールFolies‐Bergères,89年開場のムーラン・ルージュなど,パリのホールが人気の中心となった。アメリカにも類似の芸能があり,ボードビルと呼ばれる。【喜志 哲雄】。…
※「ボードビル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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