アメリカの黒人作家。ニューヨークのハーレムに生まれる。14歳のとき義父と同じ説教師になるが、17歳で教会を飛び出し、給仕、労働者などの職を転々としながら文学に専念する。1948年パリに渡り、約8年半滞在、これまで「抗議」の枠内に局限されていた黒人文学に新たな局面を開いた自伝的処女作『山に登りて告げよ』(1953)を発表し、一躍注目を浴びた。次作『ジョバンニの部屋』(1956)では、黒人の世界から離れ、フランスを舞台に、アメリカ青年とイタリア青年の同性愛を通じて、純粋な愛情、深刻な罪意識、他者に対する責任の問題を追求した。この主題をさらに複雑な形で展開したのが第三作『もう一つの国』(1962)である。
1968年に発表された長編『汽車はいつ出ましたか』は、心臓病の発作で倒れた黒人俳優が病床に横たわりながら、奴隷制に苦しんだ先祖、自分の両親や兄、黒人に対する白人の差別と偏見、劇団仲間との異常な性愛関係などを回想する夢幻的な作品。そのあと、寃罪(えんざい)で獄中にいる黒人青年と彼の子を宿した黒人娘とのロメオとジュリエット風の純愛物語『ビール街に口あらば』(1974)を書いたが、世評は概して芳しくなかった。第六作目の長編『私の頭のすぐ上に』(1979)は、39歳の若さで急死したゴスペル・シンガーの弟を悼んで、そのマネージャーを務めた7歳年上の兄が、弟との関係を軸に、2人を取り巻く人たちや事件を、朝鮮戦争、公民権運動などの歴史的背景を織り込みながら回想してゆく約30年間にわたる物語である。これまでしばしば繰り返されたテーマ、宗教、人種問題、同性愛などをすべて取り込み、この作家としては野心的な600ページに近い大作であるが、構成、内容が短編『ソニーのブルース』(1957)と『汽車はいつ出ましたか』とをつき混ぜたような作品であって、新鮮味に乏しい。
ともあれ、ボールドウィンが小説のなかで、黒人の特殊な体験を、現代人が直面している危機的運命と重ね合わせることによって、黒人文学に普遍的な意味を与えたことは特筆に値する。こうした所論を含め、黒人のアイデンティティや白人のメンタリティを追求したのが『アメリカの息子のノート』(1955)、『誰(だれ)も私の名を知らない』(1961)、『次は火だ』(1963)など一連の評論集である。彼の関心が純粋な個人的主題から出発し、しだいに社会的主題へと展開してゆく傾向は、評論にも小説にも共通している。『巷(ちまた)に名もなく』(1972)は、1960年代の公民権運動や黒人運動の指導者たちとのかかわりを記録した内省的な手記。このほかに、戯曲『白人へのブルース』(1964)、短編集『出会いの前夜』(1965)、映画論『悪魔が映画をつくった』(1976)などがある。
[関口 功]
『山田宏一訳『悪魔が映画をつくった』(1977・時事通信社)』▽『佐藤秀樹訳『アメリカの息子のノート』(1969・せりか書房)』▽『橋本福夫訳『巷に名もなく』(1975・平凡社)』▽『黒川欣央訳『次は火だ』(1968・弘文堂)』▽『武藤脩二・北山克彦訳『出会いの前夜』(1967・太陽社)』▽『ファーン・マージャ・エックマン著、関口功訳『ジェームズ・ボールドウィンの怒りの遍歴』(1970・冨山房)』▽『エドワード・マーゴリーズ著、大井浩二訳『アメリカの息子たち』(1971・研究社叢書)』▽『ハワード・ハーパー著、渥美昭夫・井上謙治訳『絶望からの文学』(1969・荒地出版社)』
イギリスの政治家。鉄鋼業者の子として生まれ、ケンブリッジ大学を卒業後、家業に従事した。1908年保守党下院議員となり、1921年ロイド・ジョージ内閣の商務相に就任した。1922年カールトン・クラブでの演説が直接のきっかけとなって、保守、自由両党の連立が崩れ、保守党内閣が成立すると財務相を務め、1923年5月ボナ・ローの後を継いで首相となった。しかし同年11月の選挙で保護主義を掲げたために保守党の議席を減らし、最初の労働党内閣の誕生に道を開いた。1924年11月ふたたび首相の座につき、金本位制復帰を断行、1926年のゼネストでは危地に陥ったが、穏健派の労働組合指導者の切り崩しを図って成功した。1931年からのマクドナルド挙国一致内閣での枢密院議長を経て、1935年6月三たび首相となり、本格的な軍備強化に乗り出した。
[木畑洋一]
アメリカの心理学者、社会学者。サウス・カロライナ州のコロンビアに生まれる。プリンストン大学で哲学の博士号をとり、アメリカのいくつかの大学およびメキシコとフランスの大学で心理学を教えた。アメリカ心理学に対する貢献は、心理学の教科書を書いたこと、少年期の心理、社会心理学ほかいくつかの著書によって進化論および発達心理学の普及に努力したこと、3種の心理学雑誌を創刊したこと、さらにG・S・ホールとともにアメリカ心理学会の創設に尽力したことなどである。
[宇津木保]
アメリカの軍事ジャーナリスト、著述家。ボルティモアに生まれる。アメリカ海軍に所属したのち、1927年『ボルティモア・サン』紙の記者となる。1929年から『ニューヨーク・タイムズ』紙の軍事記者として働き、1942年には南太平洋戦域に関する連載記事によりピュリッツァー賞を受賞。その後、同紙の軍事関係記事の編集者、解説委員を務めた。第二次世界大戦や朝鮮・ベトナム戦争などを取材、世界各地の軍事基地を訪問した豊富な経験から、軍事・安全保障に関する多くの著作を出版した。おもなものに『力の代償』(1948)、『大軍拡競争』(1958)、『勝利と敗北』(1966)、『ひしがれた巨人・アメリカ』(1970)などがある。
[鈴木ケイ・伊藤高史]
アメリカの代表的黒人作家の一人。R.ライトらのいわゆる〈抗議小説〉の型を脱して,世界文学のなかでのアメリカ黒人文学の地位をたかめたことで評価される。ニューヨークの黒人居住区ハーレムに生まれ,貧しい説教師の家庭で苦難の幼少年期を過ごした。1953年,自伝的長編小説《山にのぼりて告げよ》を発表。登場人物を黒人に限ったこの作品は,父と子の問題,生の不安,性に根ざす宗教的罪悪感,人種対立をはらんだ社会への疑念など,主人公である黒人少年の心理の深部を濃密に描いて注目された。第2作《ジョバンニの部屋》(1956)を経て,白黒両人種間の愛の複雑な様相と,人間性に対して破壊的な働きをするアメリカ社会の特異な性格を複雑にからませた大作《もう一つの国》(1962)によって彼の文名は世界的なものになった。60年代には公民権運動のスポークスマンとして全国的に講演活動を展開,評論《次は火だ》(1963)や戯曲《白人へのブルース》(1964)を発表してアメリカの病弊を鋭く批判した。ブラック・パワー系の解放闘争が勢いを得た60年代後半には,リロイ・ジョーンズ(バラカ)らに体制側として批判されたにもかかわらず,79年の《頭上すれすれ》にはブラック・パワー系運動に対する共感もうかがわれる。作品にはほかに評論《アメリカの息子のノート》(1955),《だれも私の名を知らない》(1961),《巷(ちまた)に名もなく》(1972),長編小説《汽車はいつ出たやら》(1965),短編集《出会いの前夜》(1965)など多数がある。
執筆者:浜本 武雄
イギリス領北アメリカの政治家。アッパー・カナダに生まれ,弁護士を経て,1829年立法議会に当選。しかし30年に落選して一時政界から遠ざかる。その間の36年イギリスに赴き植民地省に責任政府樹立を要請したメモランダムを提出するが,これはイギリス領北アメリカ植民地の政治改革運動の中で高く評価される文書である。W.L.マッケンジーら急進派の起こした37年の蜂起ではイギリス側につき,穏健な議会工作による改革を指導。41年連合カナダ植民地立法議会に再選を果たしてからは,一連の責任政府樹立の動議を提出した。指導力を買われて42-43年,第1次ボールドウィン=ラ・フォンテーヌ内閣を組閣。48年の第2次内閣の成立は,連合カナダ植民地における責任政府の樹立を意味していた。一貫して穏健な改革主義者であった彼は,51年大法官庁裁判所廃止に抗議して議員を辞し,以後政界から退いた。
執筆者:大原 祐子
アメリカの軍事評論家。ボルティモア市の生れ。1924年にアメリカ海軍兵学校を卒業,少尉に任官して戦艦,駆逐艦の乗組員を経験した。27年に海軍を退役,《ボルティモア・サン》紙記者となったが,29年に《ニューヨーク・タイムズ》紙に転じ,軍事記者の道を歩みはじめ,42年には軍事担当部長となった。同年,南太平洋情勢についての報道でピュリッツァー賞を受賞した。第2次大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争をカバーしたが,単なる報道記者ではなく,独自の戦略的観点からの戦争の分析が高い評価を受けた。第2次大戦の主要作戦を分析した《戦場の勝敗》など多くの著書がある。彼は,ベトナム戦争以降のアメリカの戦略を追究した《あすのための戦略》(1970)の中で,大陸国家であるソ連の拡張主義に対抗するため,アメリカは海洋に配備する戦略核戦力による抑止を重視するのと同時に,海,空軍力による海洋支配力を強化する必要があることを強調した。
執筆者:阪中 友久
イギリスの保守党政治家。大鉄鋼業者の家に生まれ,ケンブリッジ大学に学び,長く家業に就いた後,1908年下院に入る。ロイド・ジョージ連立内閣に大蔵財務次官(1917-21),商務院総裁(1921-22)を務めたが,22年保守党の離脱を主張して連立内閣を倒した。続くボナ・ロー保守党内閣では蔵相として戦債の処理に当たった。23年ボナ・ローの病気引退後首相となり,不況打開に保護関税政策を採ろうとして総選挙に敗れ,24年辞職。初の労働党内閣は短命に終わり,同年再び第2次内閣を組織。平和と秩序を重んじ,26年には空前のゼネスト収拾に成功したが,長びく不況への積極策を欠き,29年辞職。31年世界恐慌下のマクドナルド挙国内閣で枢密院議長,35年これを引き継ぎ首相となる。36年新王エドワード8世のシンプソン夫人との結婚に反対,エドワード8世を退位させ,37年A.N.チェンバレンに首相を譲り引退。
執筆者:池田 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1867~1947
イギリスの政治家,首相(在任1923~24,24~29,35~37)。保守党下院議員として1908年政界に入り,21年商相として入閣。23年ボナ・ローを継いで首相に就任。24年1月辞職し,10月の選挙で保守党が勝利し再び首相となり,29年まで政権を維持した。35年マクドナルドのあとをうけて挙国内閣を組織した。エドワード8世の結婚問題で王を退位させた。37年辞職して,チェンバレン(ネヴィル)に首相の座を譲り,貴族院に移った。
1924~87
アメリカの代表的な黒人作家。ニューヨーク・ハーレムの貧しい説教師の家に生まれ,48~57年にパリほかで活動。帰国後,黒人作家ではなくアメリカ人作家であると主張,公民権運動には参加したが白人憎悪を避けた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…カナダ史では過激な変革は排され,漸進的な改革が目的を達成する。マッケンジー,パピノーの運動はより穏健なR.ボールドウィン,L.H.ラ・フォンテーヌらに受け継がれたのであった。 しかし,蜂起の失敗は両植民地に大きな影響を与えることになった。…
※「ボールドウィン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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