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マクマオン Mac-Mahon, Marie-Edme-PatriceMaurice de, Duc de Magenta

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マクマオン
Mac-Mahon, Marie-Edme-PatriceMaurice de, Duc de Magenta

[生]1808.7.13. ソーヌエロアール,シュリイ
[没]1893.10.17. ロアレ,シャトーラフォレ
フランスの軍人,政治家。熱烈なレジティミスト (正統王朝派) の家に生れ,1827年入隊。アルジェリア征服で軍功をあげて 48年将軍,クリミア戦争イタリア戦争で名声を高め元帥となり,マジェンタ公の称号を得た。 64年アルジェリア総督。普仏戦争の際スダンで重傷を受け捕虜となったが,講和により釈放され,ベルサイユ軍の指揮官としてパリ・コミューンの鎮圧に努めた (1871) 。この結果,議会で多数派であった王党派の人気を獲得し,73年5月大統領。正統派とオルレアン王朝派に分裂していた王党派の連合が成らず,76年総選挙で共和派下院に大量進出すると共和派に内閣をゆだねたが,翌年余勢をかった共和派が教権至上主義を敵としてカトリック勢力を弾劾すると,内閣を罷免し,大統領特別権限によって下院の解散を断行 (77.5.16.) 。しかし 77年 10月の選挙でも共和派の優位を変えることができず,79年1月辞職。

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世界大百科事典 第2版の解説

マクマオン【Edme Patrice Maurice,comte de Mac‐Mahon】

1808‐93
フランスの軍人,政治家。七月王政下のアルジェリア平定,第二帝政下のクリミア戦争,イタリア統一戦争に功があり元帥となる。パリ・コミューンに際しては政府軍司令官としてこれを鎮圧し,73年第三共和政の大統領となったが,王政復活を策して議会の停会を断行し(1877年5月16日事件),解散につづく総選挙で共和派に敗れて威信を失い,79年辞任した。【石原 司】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マクマオン
まくまおん
Comte de MacMahon, Marie Edme Patrice Maurice
(1808―1893)

フランスの軍人、政治家。アイルランド系貴族の出身。1830年アルジェリア遠征に参加し、20年以上にわたって対現地人戦闘に従事した。このため大軍の指揮や戦略面では凡庸との評があるが、戦場では勇気ある軍人で、クリミア戦争、イタリア統一戦争ではそれぞれ師団長、軍団長として野戦の功があった。プロイセン・フランス戦争に第1軍司令官として参戦、緒戦に敗北したのち、負傷のためセダン(スダン)降伏の責任を免れた。帝制廃止後パリ・コミューン鎮圧軍司令官を務め、1873年王党派に推されて大統領に就任、1877年共和派優位の下院に信任されるシモン内閣を辞職させ(五月十六日事件)、下院をも解散したが、続く総選挙に敗れ、1879年に辞職した。この事件は、下院解散を禁忌とする第三共和政の憲法慣行をつくったものとして記憶されている。[石原 司]

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