マヤコーフスキー

百科事典マイペディア「マヤコーフスキー」の解説

マヤコーフスキー

ロシア(ソ連)の詩人。ジョージア生れで,少年時代から革命運動に加わる。モスクワの美術学校でロシア未来派の運動を始め,長《ズボンをはいた雲》(1915年),《戦争と世界》(1917年)などで頭角を現し,十月革命を〈わたしの革命〉として受け入れてからは,精力的な活動でソビエト詩壇に君臨した。劇詩《150000000》(1920年),《ウラジーミル・イリイチ・レーニン》(1924年)などで世界革命と社会主義をたたえたほか,長詩《これについて》(1923年)では革命の時代の抒情の姿を示し,戯曲《南京虫》(1929年),《風呂》(1930年)では官僚主義に痛烈な攻撃を浴びせたが,安定期に入ったソビエト社会の中で孤立。不幸な恋愛もからんでピストル自殺した。絶筆は長詩《声をかぎりに》。20世紀ロシア詩を代表する詩人。
→関連項目アラゴンフレーブニコフメイエルホリドロドチェンコ

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世界大百科事典 第2版「マヤコーフスキー」の解説

マヤコーフスキー【Vladimir Vladimirovich Mayakovskii】

1893‐1930
ロシア・ソ連邦の詩人。グルジア寒村に生まれ,1905年のロシア革命の余波を受け,少年時代から政治活動に参加し,15歳のときにロシア社会民主労働党に入党した。3度にわたる逮捕と半年をこえる独房での獄中生活を体験したのち,10年1月,釈放と同時に政治活動をやめて,〈芸術の革命家〉たらんと決意した。 11年マヤコーフスキーはモスクワ絵画彫刻・建築学校に入学し,本格的な絵画の勉強を始めたが,詩と絵画を中心とするアバンギャルド芸術の運動を創始未来派文集《社会の趣味への平手打ち》(1912)を出し,詩を発表しはじめた。

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世界大百科事典内のマヤコーフスキーの言及

【アセーエフ】より

…国内戦時代はウラジオストクで詩集《爆弾》(1921)を発表。1923年,文学上の師マヤコーフスキーらと共に文学団体〈レフ(芸術左翼戦線)〉に加わった。《セミョン・プロスカコフ》(1928)などの一連の物語詩,詩集がこの時期を代表する。…

【児童文学】より

…F.K.ソログープは暗い影の多い不思議な小説を作り,L.N.トルストイはおおらかな民話と小品を発表した。革命後の新しい児童文学の父はM.ゴーリキーであったが,彼はとくに子どものものを書かずに,V.V.マヤコーフスキーやS.Ya.マルシャークやK.I.チュコフスキーにその実りをゆずった。そのうちでマルシャークは第一人者として,《12の月(森は生きている)》(1943)のような劇やたくさんの童謡を発表している。…

【戦間期】より

…しかし革命が第1段階を過ぎ制度化の段階が始まると,それはしばしば創造活動の自由と両立しなくなる。1930年4月,みずから生命を絶ったV.V.マヤコーフスキーの生涯がその例である。彼の悲劇は,文学や芸術に対する官僚的統制の代名詞にまで頽廃しかねない〈社会主義リアリズム〉の危険を予告したかのようにみえる。…

【プルーチェク】より

…1950年からモスクワ風刺劇場演出家(57年からは首席演出家)。葬られていたマヤコーフスキーの戯曲《風呂屋》を53年に,《南京虫》を55年に,《ミステリア・ブッフ》を57年にそれぞれ舞台に復活させた功績は大きい。そのほかに《検察官》《フィガロの結婚》《知恵の悲しみ》やソ連の現代風刺劇など名作を数多く演出したが,いずれも楽天的で明るい。…

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