第2次大戦中、ナチス・ドイツが先に原爆を製造することを恐れ、米国は極秘に開発を進めた。ニューメキシコ州のロスアラモス研究所を中心に、テネシー州オークリッジで広島原爆に使われたウランを、ワシントン州ハンフォードで長崎原爆用のプルトニウムを製造した。1945年7月、人類史上初の核実験に成功し翌8月、広島と長崎に原爆を投下した。
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第2次世界大戦中にアメリカによって行われた原爆製造計画のこと。この名称は,アメリカ陸軍に原爆製造がゆだねられ,工兵隊がその任にあたった際につけられた。初めこの特別工兵管区の名称はDSM(Development of Substitute Material)と呼ばれて準備作業が進められていたが,この計画についての陸軍の責任者であるL.R.グローブスの提案によりマンハッタン工兵管区(Manhattan Engineer District,略称MED)とされ,1942年8月13日に発足した。これはニューヨークにその事務所が開設されたことに由来する。以後原爆製造計画はマンハッタン計画と呼ばれることになった。その意味では狭義のマンハッタン計画はこの時期以後のことであるが,一般には広く原爆製造計画全体をさすものとされている。
原子核物理学の進歩の結果,1939年になると核分裂によって生ずるエネルギーの利用の可能性については世界各地で論議の対象となった。この時点でドイツからの亡命科学者たちは,ナチス・ドイツの手によって原爆が開発される可能性を指摘し始め,この開発競争が世界大戦の帰趨(きすう)を決すると考えた。L.シラードはその中心にあり,さまざまなルートを利用してアメリカ政府に原爆開発を勧告した。その一つがアインシュタインによるローズベルト大統領あての書簡である。この書簡はシラードが起草し,アインシュタインを促して署名(1939年8月2日)させたものである。これを受けて同年10月21日に,アメリカ合衆国標準局長官であるL.C.ブリッグスを委員長とし,亡命科学者を専門的検討の中核とするウラニウム諮問委員会が発足した。この委員会は同年11月1日に原子力と原爆の可能性を指摘し,それを確証するための実験研究を答申し,このグループに関係する科学者によって小規模な実験が行われ始めた。ただしこの研究は,天然ウラン石墨を利用した遅い中性子による連鎖反応であって,後の原爆に直接つながるものではない。このころ,アメリカ政府は,ヨーロッパ戦線の拡大のなかで戦時体制を整え,40年6月27日にV.ブッシュを責任者とする〈科学動員のための組織・国防研究会議〉(略称NDRC)を設立した。先のウラニウム諮問委員会はこのNDRCの1委員会となる。この再編成に伴い,亡命科学者たちは計画の意志決定からしだいに遠い立場におかれるようになった。
一方イギリスでは,40年3月にO.フリッシュ,R.E.パイエルスによりウラン235 235Uを用いた速い中性子による連鎖反応の考えが提出され,それを受けて6月に原爆問題の検討のためのモード(MAUD)委員会が設置された。また,J.D.コッククロフトによりプルトニウムを利用した原爆の構想が考えられ,これが41年の初めにアメリカのE.O.ローレンスに伝えられた。これらのイギリス側の研究は初めから兵器としての研究に焦点が絞られていたことに特徴がある。
アメリカでは,NDRCのブッシュの求めにより,全米科学アカデミー(NAS)の組織した計画再検討委員会において原爆開発の軍事的意義が検討されはじめた。この委員会は41年に三つの報告書を提出した。この報告書の初めのものは,先のウラニウム諮問委員会の流れを汲み,遅い中性子による連鎖反応,すなわち原子炉によって生じるエネルギーを艦船の動力として用いることに力点があった。また原子炉で生じた放射性物質を毒物として軍事利用しようとするものであり,原爆についてはその実現可能性を指摘する程度であった。これが原爆に結びついた原因は二つある。一つは,ローレンスによってもたらされたもので,これはウラン238 238Uから製造されるプルトニウムが速い中性子で連鎖反応を起こす可能性を指摘した。これにより,動力を想定していた天然ウランの連鎖反応において,238Uが中性子を捕獲しプルトニウムという原爆の材料を生産することが明らかになったのである。もう一つはイギリスのモード委員会の検討結果がアメリカに伝えられ,235Uによる爆弾の可能性がきわめて高いことがわかったのである。ここに天然ウランから235Uを分離する計画と,ウラン・パイル(原子炉)を建設してプルトニウムを生産する計画とが轡(くつわ)をならべて進められることとなった。この41年の夏が原爆開発計画の転換期である。アメリカ政府の指導者たちが,兵器としての原爆開発に進む具体的方針を確定したのはこの時期以降であり,同年10月9日,大統領のもとに最高政策グループが発足した。全米科学アカデミーの第3次報告書は235Uによる爆弾が可能であると結論し,爆発的連鎖反応のための臨界量も算定された。この意味で先のアインシュタイン書簡を原爆開発の起点とする説はかならずしも正確とはいえない。
この間,ブッシュを長官とする科学研究開発局(略称OSRD)が,NDRCなどによる戦時研究全体を包括するものとして41年6月28日に発足し,ウラニウム諮問委員会はこのOSRDのウラニウム部(S-1部)となった。計画の本格化に伴い,陸軍に生産を移管する措置がとられ,いわゆるマンハッタン計画が展開される。そして翌42年1月には原爆の完成日程は45年初めとされた。そしてこの日程は計画全体のなかで変わることはなく目標とされた。
原爆製造のためにはまず核分裂物質を精製する必要がある。つまり,濃縮ウランとプルトニウムの量産を実現することであるが,これにはウランやプルトニウムの抽出という化学技術的過程と,235Uと238Uとの分離という物理技術的過程とが必要である。42年にはいるとウランの同位体の分離について,電磁分離法,気体拡散法,遠心分離法という3方法が想定され,並行して実験研究が行われた。またプルトニウムについては,サイクロトロンにより製造される微小量の試料を用いて,その原子核の特性や化学的性質を調べると同時に,ウラン・パイルの建設がすすめられ,大規模な連鎖反応の実験的確証と量産計画が実施された。42年12月2日のシカゴ大学で最初の原子炉が臨界に達し,また核分裂物質の量産のための用地買収準備がすすめられたことに象徴されるように,この年は原爆製造のための具体的準備が行われた年にあたる。
43年にはロス・アラモス研究所でJ.R.オッペンハイマーを中心に,精製された核分裂物質をどのように爆弾として構成するかという原爆開発の核心的技術問題を扱う研究が始められた。同時に実用規模の各生産工場の建設,運転が相次いで開始された。この原爆開発製造に従事した企業は,核分裂物質製造に必要な化学技術的過程と物理技術的過程とを担うために,デュポン,ユニオン・カーバイド,テネシー・イーストマン,ゼネラル・エレクトリック,ウェスティングハウス・エレクトリックなどの化学工業や電気メーカーの主要企業であった。また同年5月の段階で軍事政策委員会は,原爆の最初の使用対象として,集結した状態の日本海軍艦隊への攻撃を仮想定している。
44年には,1月に航空機による投下訓練が始められるなど,原爆完成の時期は最終的に確定し,その投下問題と戦後の管理問題が,政策決定者にとってだけでなく計画に従事した科学者たちにとっても焦点となり始める。45年の春には原爆攻撃目標制定委員会の発足,また,原爆と原子力について戦後構想も含めてあらゆる問題を検討する暫定委員会の発足がなされた。これらの検討を経て,対日無警告早期使用が決定され,原爆製造で協力関係にあったイギリスも7月にこれに同意を与えた。
45年7月16日アラモゴードの砂漠でプルトニウム原爆の実験が成功し,そして8月6日にウラン原爆が広島に,8月9日にプルトニウム原爆が長崎に投下された。この悲惨な結末をもってマンハッタン計画は終局を迎えるが,同時に核兵器に世界が覆われる時代の始まりを告げたのであった。なお陸軍が管理していた原爆製造の全生産施設は47年1月に発足した原子力委員会に引き継がれることとなり,現在もなお核兵器厰として核兵器の研究,開発,製造を続けている。マンハッタン計画の原爆製造技術は,戦後も継続して機密下におかれ,また他の戦時下の技術と異なり民生用として転用不可能なため,政府と民間企業との関係に従来にない影響をもたらした。政府契約の公開入札の原則の変更,また関連する財政支出の詳細が秘密にされるなどの事態は戦後もさらに進行した。そして独占企業と軍との癒着の構造が固定化し,後にはアメリカ大統領アイゼンハワーが軍産複合体と名付けてその暴走を案ずるほどとなった。
今日の核軍備競争の直接的出発点にこの原爆製造計画があったがため,マンハッタン計画が与えた影響は一国にとどまらず戦後世界全体に及ぶものである。まず最も大きいものは,原爆が,戦後の冷戦そして水爆を含む核軍備競争の起源となり,現在の核に覆われた世界の状況の直接的原因となったことである。
またマンハッタン計画は,国家と科学との新しい関係を創出する契機となった。つまり,科学者の国家動員が戦時だけでなく平時から常態化し,広く国家目的に科学を利用するための政策,すなわち科学政策の確立が戦後多くの国で叫ばれる契機となったことである。とくに戦後アメリカが行った原爆の独占的保有を最大限利用して進めた外交は,一般に原爆外交といわれ,アメリカの戦後世界での国際的地位を築くことになった。そのことは,現実化された軍事技術だけでなく,潜在的な科学,技術の研究開発能力が国際政治における交渉力に寄与するという今日の状況の遠因となっている。そして研究開発組織の面では,戦後のいわゆる巨大科学と呼ばれる宇宙開発,原子力開発,海洋開発といった国家主導型の研究開発システムのモデルとされ,個々の研究者の主体性よりも,全体の目標を達成するための効率に中心を置く形態が支配的となっていった。さらに科学者にとっては,科学の成果が広島や長崎の惨事に直結してしまったという現実は,科学と社会との関係を深く自覚することを迫られた。戦後の科学者運動の多くが,原爆開発に無自覚なままに携わったことへの反省,もしくは科学研究の成果が社会の中で果たす意味に無関心であってはならないとする立場から始められた。このようなマンハッタン計画は依然として現代の科学,技術と社会の問題を考える重要な起点となっている。
執筆者:奥山 修平
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第二次世界大戦中のアメリカの原子爆弾製造計画。ドイツの核開発の可能性を恐れた亡命科学者らが、ルーズベルト大統領に原爆製造の急務を進言したのが発端で、約二十数億ドルを費やし、オッペンハイマーなどの科学者を動員した。1942年8月「マンハッタン管区」(機密保持の暗号名)が陸軍工兵科内に設置され、陸軍、ロス・アラモスなどの関連研究所、産業団体の間に協力体制が敷かれた。45年7月ニュー・メキシコ州アラモゴードで史上初の核実験が行われ、8月には広島、長崎に原爆が投下された。
[宮前志保]
『H・D・スマイス著、杉本朝雄・田島栄三・川崎栄一訳『原子爆弾の完成』(1951・岩波書店)』
アメリカによる第二次世界大戦中の原子爆弾製造計画の通称。ドイツの核爆弾先行開発を恐れたアメリカは,1939年より核爆弾製造を本格的に検討,42年に陸軍工兵隊(マンハッタン工兵管区)に原爆生産を移管し,軍,政府,科学者,産業界が開発を行った。45年7月に最初の原爆実験が成功。翌8月,広島,長崎で原爆が実戦使用された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…42年6月,OSRDのブッシュ長官から235Uと239Puに関する報告書がローズベルト大統領に提出されたことを契機として,陸軍工兵科内に原子爆弾開発計画を遂行する特殊任務の管区を設置することが大統領の承認を受けて決定され,〈マンハッタン管区〉と命名された。公式には9月13日発足し,L.R.グローブス准将を長とするいわゆるマンハッタン計画が強力に推進されることとなる。 当時核兵器に使用する核分裂物質として235U,239Puが考えられていた。…
…それは戦後続々と出現する巨大科学の見本例となった。マンハッタン計画の斬新さは,単に投入された予算および人員の大きさだけにあるのではない。科学を従来のような,あらかじめ究極目標を定めない計画性・組織性を欠いた活動から,事前に決められた目標(マンハッタン計画の場合は,原爆を実戦に使える兵器として完成することであったが,そうした実利的目標でなくともかまわない)を達成することに向けて,さまざまの資源(資金,資材,人材など)を,高度の計画性にもとづき組織的に動員する活動へと変質させたことこそ,マンハッタン計画が科学界におよぼした最大のインパクトであろう。…
…彼らは,ドイツに残っている科学者たちが核分裂エネルギーを用いて兵器をつくる可能性を危惧し,当時のアメリカ大統領ローズベルトにアメリカでもその可能性をドイツに先がけて検討する必要があることを訴えた。そして,これが契機となってマンハッタン計画とよばれる国家機密プロジェクトが発足した。核分裂現象発見の論文が発表されたのが1939年1月で,科学者を代表してアインシュタインがローズベルトへ書簡を送ったのが同年8月であった。…
…
[歴史]
原子力の利用は第2次大戦中,軍事利用を目的として開始された。アメリカにおいてアインシュタインの提言により1942年,〈マンハッタン計画〉が実行に移され,45年7月に原爆実験に成功したわけである。戦後,こうした軍事利用技術を基礎として,各国で政府および民間の開発体制が整えられた。…
…サンタ・フェの北西38km,標高2225mの高原上にある。1942年マンハッタン計画に基づき連邦政府により原子力研究所が創設され,45年7月アラモゴード北西部の砂漠で世界最初の原子爆弾の実験に成功した。広島,長崎に投下された爆弾もここで製造された。…
※「マンハッタン計画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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