主として核兵器開発のために核爆発を行うこと。1945年7月16日,アメリカがニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で世界最初の原子爆弾の爆発実験を行って以来,96年6月までに2000回以上の核実験が行われた(表)。74年にインドが行った核実験は平和目的のためのものと発表されたが,現在の段階で軍事目的の核実験と平和目的の核実験を区別することはできない。これらの核実験の目的は,(1)核爆発および核爆発装置の物理学的研究,(2)核兵器の性能の改善,(3)核兵器の効果の調査,(4)新しい型の核兵器の有効性の確認,(5)核兵器の新しい軍事的使用法の実験,(6)貯えられている核兵器の性能の維持の確認,(7)研究所や工場の技術水準と人員の維持,(8)核兵器が安全保管基準に合致していることの試験,(9)他の核兵器国からの脅威の評価,(10)核兵器を使用する戦術および戦略思想の基礎の確立,(11)核兵器システムの開発過程での費用の節減,などであった。とくに核実験の約3分の2は,新しい核兵器システムの開発に関するものであったと推定されている。
1950年代初めの熱核兵器の開発は,核実験競争を激化させた。61年10月にソ連は,爆発威力がTNT火薬にして58Mtと推定される核実験を行った。これはこれまでに行われた世界でもっとも規模の大きい核爆発である。また核実験による放射性降下物の全地球的汚染が著しくなり,核実験禁止の世論が全世界に強まった。1954年10月,インドのネルー首相が国連政治委員会で核実験休止協定を呼びかけて以来,この問題は国連の中でも重要な問題として検討されるようになった。
63年8月,米・英・ソ3国は〈部分的核実験停止条約〉(略称PTBT)に調印し,大気圏内,宇宙空間,水中での核実験は禁止されたが,地下核実験は抜け道として残され,その後は核実験の大部分は地下爆発で行われてきた。部分的核実験停止条約は,大気圏内の放射能を減らすことには役立ったが,核兵器の開発にも,また核実験の回数や威力に対しても,制限効果はまったくなかった。この条約調印までに,世界で488回の核実験が行われた。年間平均実験回数は約27回であった。条約調印後96年までに1547回の核実験が行われており,年間平均回数は約47回と増加している。また地下爆発では大規模な核実験は行えないともいわれていたが,実験孔を掘る技術の進歩などによって,アメリカはアムチトカ島で69年10月に1.5Mt,71年11月には5Mtの地下核実験を行った。
1954年3月1日,アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験では,爆発地点から150kmも離れたところで操業していた日本のマグロ延縄(はえなわ)漁船〈第五福竜丸〉が大量の放射性降下物をあびて,乗組員23人全員がひどい放射線障害を起こし,半年後に無線長の久保山愛吉が死亡するという事件が起こった(ビキニ水爆実験)。さらに続けられた核実験によって,多数の漁船や漁獲物が放射能に汚染されていることが明らかになった。水産庁が行った海洋調査によっても,汚染された表面海水が北赤道海流や黒潮にのって日本の南岸近くまではこばれていることがわかった。また,くり返される核実験で成層圏まで吹き上げられた放射性物質が,全世界に危険な効果をもたらすことがしだいに明らかとなってきた。56年国連は〈放射線影響科学委員会〉(通称,国連科学委員会)を設けてこの問題の検討を続けた。この委員会が77年の国連総会に提出した報告書によれば,76年までに行われたすべての核実験によって,約145Mtの威力の核分裂で生じた放射性物質を地球全体に拡散したと推定している。これによって世界の住民の受ける平均放射線量は,2000年までに全身線量で約120ミリラド(1ミリラド=10⁻4グレイ)と評価している。また80年9月ワルトハイム国連事務総長が報告した〈核兵器の包括的研究〉と題する報告書では,過去の全大気圏内核実験は全世界で約15万人の死を早めたに等しいこととなり,そのうちのほぼ90%は北半球で起こると考えられると述べている。
部分的核実験停止条約が結ばれたとき,これが全面的なものとなりえなかった表向きの理由は,核実験の検証,とくに現地査察の細部について合意が得られなかったからであった。しかし1965年の18ヵ国軍縮委員会に,スウェーデンは地下核爆発探知の国際〈核実験探知クラブ〉を提案し,その後も専門家の参加した非公式会議などで,地震学的方法などによる探知技術についての地道な努力が続けられてきた。80年代半ばの技術では,固い岩石中に封じこめた核爆発ならば,約1ktに対応する地震現象を探知し,位置を判定することが可能だとされている。80年ワルトハイム国連事務総長が総会に提出した〈包括的核実験禁止についての報告書〉には,〈1972年に私は,軍縮委員会会議への声明で,問題の技術的および科学的側面はすべて完全に調べられており,合意に達するには政治的決定だけが必要であるという確信を述べた。私は今でもこの確信を変えていない〉と述べている。
執筆者:服部 学
1954年のビキニ水爆実験により日本の漁船〈第五福竜丸〉の無線長久保山愛吉らが死傷したことを契機として,死の灰の増加,核兵器保有国の増加,無制限の核兵器開発などに対する強い懸念が表明された。1954年にはインドのネルー首相などにより,56年以降はソ連などの発議により核実験禁止が国連などで審議されるようになった。しかし,50年代は米ソがそれぞれ一方的に核実験停止を表明して後に再開するなど,国際世論に対する政治宣伝を含む駆引きという性格が強かった。それでも米・英・ソ3国による核兵器実験停止会議(1958-62)は,合意は成立しなかったが,詳細な審議を行い,後の合意の基礎をつくりだした。
62年10月のキューバ・ミサイル危機後,米ソはこの問題で秘密折衝を重ね,およそ半年後の63年8月,モスクワで,地下実験を除く大気圏内,宇宙空間,水中での核爆発実験を禁止する〈部分的核実験停止条約〉(PTBT)の調印にこぎつけた(同年10月10日発効)。キューバ・ミサイル危機は,戦争回避が双方にとって利益であることを深く認識させたため,両国はすでに問題を煮つめ終えていたこの課題をとりあげて条約を締結したわけである。この意味で同条約は,米ソによる平和維持体制の開幕をつげるものであったが,その意義は核兵器保有国の増加を防止するという点にあった。つまり米ソはすでに相当量の核兵器を貯蔵しており,地下での実験も可能であったが,他の国にとっては地下実験は難しく核兵器の開発が妨げられるからである。このため,核開発の後発国であるフランス,中国は,米ソ体制を制度化するこの条約に参加しなかった。
同条約以後,地下実験の禁止を含む包括的核実験の禁止を目ざして,核実験の探知・識別などに関する専門家会議が続けられた。核実験の探知・識別には地震計が使われるが,米ソは核実験と自然の地震の区別が不可能との理由で条約から地下実験を除外しようとした。そのような口実を与えないために,スウェーデンが技術的検討を提唱し,65年〈核実験探知クラブ〉(地震学的データ交換会議)が設けられ,68年には非政府代表の専門家会議が開かれ,マグニチュード4.75以上の地下実験は探知・識別が可能という結論を出した。
これを受け,スウェーデンなどが各種の実験制限・禁止案を提案したが,部分的核実験停止条約調印後およそ10年目に米ソが合意したのは〈地下核兵器実験制限条約〉(TTBT,1974年7月3日調印)と〈平和目的地下核爆発制限条約〉(PNET,1976年5月28日調印)であった。前者は爆発威力150kt以上の地下実験を禁止し,後者は平和目的という名目による同規模以上の核爆発を禁止している。しかし,専門家会議で探知・識別が可能とされたマグニチュード4.75は爆発威力でおよそ19ktに相当し,米ソが合意した150ktという上限は規制を意味しないほどに高かった。また核弾頭は小型化する傾向にあり,加えて小型の核実験によりそれ以上の規模の核弾頭の開発が可能とされているので,両条約は米ソにとってほとんど制限の意味をもっていなかった。このように両条約は包括的核兵器実験の禁止からはほど遠いにもかかわらず,軍部の反対もあっていずれも発効しなかった。
両条約の調印後,米・英・ソ3国は,77年から包括的核兵器実験禁止条約(CTBT)の基礎的事項につき交渉を開始した。中心的な問題は,(1)禁止範囲(平和目的核爆発の扱い),(2)現地査察や探知技術利用をめぐる検証問題,(3)条約の有効期間,(4)フランス,中国の参加問題などであった。3国は有効期間3~5年程度の条約を,当初はフランス,中国抜きで成立させ,平和目的核爆発は議定書で扱うなどで合意したとされたが,検証問題での話合いが難航し,条約の成立には至らなかった。
この問題で急速な進展が見られたのは,冷戦の終結過程においてであった。冷戦の終結過程で米ソの実験回数は減少していたが,ロシアは1991年から,アメリカも93年から核実験を一方的に停止した。このような情勢を受けてジュネーブの軍縮会議は93年に包括的核実験禁止条約の起草交渉を翌年から開始することを決定した。条約成案を得る直接のきっかけになったのは,条約期限が満了した核不拡散条約(NPT)が95年に無期限延長された際,同時に採択された〈核不拡散と核軍縮の原則と目標〉においてCTBTの交渉を96年中に完了することがうたわれたことであった。こうして条約成立の見通しが強まると中国,フランスは駆込み実験を行ったが,世界的に激しい世論の反発を招き,核実験禁止条約成立への強い気運を確認させる結果となった。
ジュネーブ軍縮会議は96年,同条約草案の起草に取り組んだが,最終段階でインドがその署名・批准が発効要件(核兵器国,核敷居国を含む44ヵ国の批准)とされたことに反発し,全会一致の決定方式をとる同会議は条約案を採択できなかった。核兵器国の中国,核開発の噂が絶えないパキスタンの脅威を感じるインドは,核兵器を製造しないもののその能力を持っていることで一定の抑止効果を期待するいわゆる〈核オプション政策〉をとっているが,条約への署名・批准を強いられることによりこの政策が封じられることを懸念したものと見られる(98年5月,インドが24年ぶりに2度目の,続いてパキスタンも初の核実験を行った)。
その後,オーストラリアが同条約案を国連総会に決議案として提出し,出席166ヵ国中158ヵ国の支持により採択され,条約は署名のために開放された。CTBTは先のPTBT以来積残しとなっていた地下実験禁止を含み,〈あらゆる核兵器の実験的爆発およびその他の核爆発〉を禁止する。1997年9月現在,146ヵ国が署名しているが,発効条件となっているインドが署名しないという態度を崩していないため発効の目途はたっていない。条約案採択後,アメリカ,ロシアが条約で一応禁止されていない〈未臨界実験〉を続けていることが,インドのみならず中国の条約への不信感を強めさせている。ただ条約は発効しなくても,CTBT機構準備委員会,暫定技術委員会は設置され,2年以内に地震波,放射性物質,微気圧変動,海中音響の四つの探知方式により,1kt以上の核爆発を探知可能な世界的な監視体制を構築することになっており,これが今後の核実験禁止規範の強化に大きな役割を果たすことが期待されている。
→核不拡散条約 →核兵器 →核戦略 →軍縮
執筆者:納家 政嗣
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
核爆発装置を実際に爆発させて性能や効果を試してみること。世界最初の核実験は1945年7月16日、アメリカのアラモゴードの砂漠で行われた。核実験の目的には、新しい核兵器の開発、核爆発の効果の検討、貯蔵核兵器の信頼性の確認、安全管理法の確立、人員や施設の機能の維持などがある。これまでに行われた核実験の約3分の2は、新しい核兵器体系の開発に関するものであったと推定されている。
[服部 学]
1950年代に、アメリカ、旧ソ連、イギリスの3国はおびただしい数の核実験を行った。そのほとんどが大気圏内で行われたために、放射性降下物による被害が生じた。とくに54年3月1日、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験の際には、150キロメートルも離れた所にいた静岡県焼津(やいづ)の漁船第五福竜丸は、大量の放射性降下物を浴び、23人の乗組員全員が急性放射線障害にかかり、そのうちの1人久保山愛吉が半年後に死亡した。また海洋の汚染によってその後も多数の漁船が汚染し、大量の汚染魚類が検出された。この実験ではロンゲラップ環礁、ウトリック環礁、アイリングナエ環礁の三つの島の住民243人も大量の放射性降下物を浴びている。ビキニ環礁、エニウェトク環礁などのいくつかの島は、現在も放射能汚染で居住禁止となっている。放射性降下物は全世界に広がり、地球全体を汚染するようになった。全世界で核実験禁止の世論が強まり、国連でも54年10月、インドのネルー首相が政治委員会で原水爆実験の休止協定を呼びかけた。55年12月、国連総会は、これもインドの提案による放射能影響調査科学委員会を設置し、この作業は現在も続いている。国連科学委員会では、これまでの核実験で生じた放射線が人類に与える影響を、北半球の場合、天然放射線の数%と推定している。
[服部 学]
アメリカ、旧ソ連、イギリスの3国は、63年8月、部分的核実験禁止条約、略して部分核停条約(PTBT)に調印し、大気圏内、水中、宇宙空間での核実験は禁止された。ただし地下での核実験は、違反の検証が困難であるという理由で禁止されず、抜け穴として残された。また60年代になって核実験を始めたフランスと中国はこの条約に加わらなかった。部分核停条約までに、アメリカは293回、旧ソ連は164回、イギリスは23回、フランスは8回、合計488回の核実験を行った。部分核停条約によって、大気圏内の放射能の増加は抑えられたが、核爆発の回数や威力にはなんの制限効果もなかった。核実験競争は主として地下爆発で続けられ、97年末までに、総計でアメリカは1030回、ロシア(旧ソ連時代に行われた実験を含む)は751回、イギリスは45回、フランスは210回、中国は45回、インドが1回の核実験を、さらに98年5月にインドが24年ぶりに5回、それに対抗する形で新しくパキスタンが5回の地下核実験を行い、合計2000回以上となった。地下核実験の技術も進み、71年11月にはアメリカはアムチトカ島で5メガトンの核実験を行っている。
[服部 学]
1974年7月、米ソ頂上会談で制限付き核実験禁止条約が調印され、両国は150キロトン以上の地下核実験を行わず、また実験は特定の実験場のみで行うことを約束した。この条約は発効せず、両国の行う核実験にはほとんどなんの制約にもならなかった。また76年5月には、普通、平和目的核爆発条約とよばれている条約も調印され、これも上限を150キロトンに制限したが、この条約も発効しなかった。150キロトンというのは広島原爆の10倍以上という高い数値である。
1996年9月、国連総会で包括的核実験禁止条約が採択され、核爆発を伴う核実験は行われないことになった。しかし、インドなど条約の発効に必要ないくつかの国は反対の意見を表明しており、また米ロは臨界前核実験(未臨界核実験)で、核爆発を伴わない核実験を行っている。98年5月のインド、パキスタン両国の核実験により、条約は有名無実化の危機にたたされている。加えて、2006年10月には北朝鮮が地下核実験を行ったと発表。アメリカの調査では、実験があったとみられる地域から微量ながら放射能も検出されており、国連安全保障理事会は北朝鮮に対し全会一致で国連憲章第7章に基づく制裁を定めた決議を採択した。
[服部 学]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…すべての人間が程度の差こそあれ環境放射線に被曝(ひばく)しており,その被曝の個人管理は医療被曝や職業被曝に比し困難である。環境放射線はその線源に関して,自然放射線natural radiation,ならびに核実験,原子力発電所等核燃料サイクルおよびその他雑線源からの人工放射線artificial radiationがある。また,被曝様式と関連して,線源が人体外にある体外放射線と,放射性物質を体内に取り込むことによる体内放射線とがある。…
…今日広く用いられている溶媒抽出法による本格的再処理設備は1944年12月よりハンフォードで運転に入った。核燃料再処理
[平和利用への応用]
濃縮ウランまたはプルトニウムから核兵器を製造する技術は,1945年2月ころからニューメキシコ州ロス・アラモスで研究され,7月16日にはネバダ州の砂漠で最初の核実験を行い,8月6日広島へのウラン爆弾,同9日長崎へのプルトニウム爆弾の投下となった。 戦後になっても東西冷戦が深刻化するにともない,核軍備は拡張・拡散した。…
…ダムの貯水,深井戸への大量の水の注入,地下核実験など人間の行為が引金となって発生する地震。地殻の構造や応力などが地震が起こりうる状態に近くなっているとき,これら人為的作用がその発生を促進するため起こるものと考えられる。…
※「核実験」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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