モサッデク(その他表記)Moṣaddeq

改訂新版 世界大百科事典 「モサッデク」の意味・わかりやすい解説

モサッデク
Moṣaddeq
生没年:1880-1967

20世紀イラン政治家,民族主義者。カージャール朝の大臣を父に,皇女を母にもつ名門で大地主の出身。フランス,スイスに留学して帰国後,1915年国会議員となり,法相(1917),蔵相(1921),アゼルバイジャン総督(1922)などを歴任パフラビー朝を興したレザー・シャーの独裁を批判して30年代を通じ追放されていた。レザー・シャー退位に伴い帰国,44-53年再び国会議員となった。トゥーデ党イスラム勢力を結集して国民戦線Jebhe Mellīを組織し,その指導者となり,51年国会で石油国有化法を可決させ同年首相就任。アングロ・イラニアン石油会社の施設を接収,約1世紀に及ぶイギリスのイラン支配を終わらせた。しかし,イラン石油は国際市場から締め出されて経済は悪化し,支持勢力内部にも亀裂を生じ,53年国王派のクーデタにより失脚した。その後も,国王体制反対運動の精神的支柱と仰がれ,死後も79年イラン革命後はホメイニーに次ぐ国民的指導者と評価されたが,一方トゥーデ党との協力をイスラムの威信にかかわるものとして非難する否定的見解も生じた。
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20世紀西洋人名事典 「モサッデク」の解説

モサッデク
Mosaddeq


1880.(1881.説もあり) - 1967.3.5
イランの政治家,民族主義者。
元・イラン首相。
別名Mohammed〉 モハメド(Mossadegh モサデク。
父はカージャール朝の大臣、母は皇女という名門に生まれ、フランス、スイスに留学後、1915年国会議員となる。以後、’17年法相、’21年蔵相、’22年アゼルバイジャン総督などを歴任するが、レザー・シャー王の独裁を批判して追放される。’41年レザー・シャーの退位、王子のパーレビ即位に伴い帰国、’44〜53年に国民議会議員を務める。この間、国民戦線の指導者となり、’51年には国会で石油国有化法案を可決させ、同年首相に就任し、アングロ・イラニアン石油会社の諸施設を接収、イギリスとの国交断絶。’53年国王派のクーデターで失脚。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「モサッデク」の意味・わかりやすい解説

モサッデク

イランの政治家。カージャール朝下の1920年代にしばしば政府要職についたが,パフラビー朝下では国王の独裁を批判した。1949年左派,イスラム勢力を結集した国民戦線を指導する。1951年首相となって,石油国有化,国家近代化,王権の制限を推進したが,1953年国王派軍部クーデタで失脚した。
→関連項目イランモハンマド・レザー・パフラビー

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世界大百科事典(旧版)内のモサッデクの言及

【モハンマド・レザー・パフラビー】より

…アメリカの後押しで国王権力は強化された。51年,モサッデク首相が石油国有化を行い国民の権利意識が高まると,53年にかけて国王とモサッデク首相との政治的対抗関係が激化した。国王は一時国外に脱出せざるをえなくなったが,将軍ザーヘディーのクーデタで復帰できた。…

※「モサッデク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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