改訂新版 世界大百科事典 「モザン美術」の意味・わかりやすい解説
モザン美術 (モザンびじゅつ)
〈モザンmosan〉とはムーズMeuse川(古称モサMosa川)の形容詞形で,モザン美術とはムーズ川流域からライン川流域に至る旧リエージュ司教区にあたる地方で栄えた中世美術をいう。
この地方は,すでにカロリング朝末期より芸術の中心地の一つとして栄え,象牙彫,写本画(《フロレッフの聖書》大英博物館)の領域に,優れた作品を生んだ。11~12世紀のロマネスク時代には金工やエマイユ(七宝)が繁栄し,多くの工芸家が輩出する。彼らの均衡にみちた芸術は,次代のゴシック美術の成立に,多大の貢献をした。まずルニエ・ド・ユイRenier de Huy(生没年不詳)は,リエージュのサン・バルテルミー教会の真鍮製洗礼盤(1107-18)において,みごとな人体比例と肉付けを見せている。次いで,ケルンで修業したゴドフロア・ド・ユイGodefroid de Huy(1100ころ-74ころ)は,サン・ドニ修道院院長シュジェールの要請により,黄金の巨大な十字架(1145)を制作するなど,国際的名声を有していた。彼の工房作も含め,12世紀中ごろには銀製の《教皇アレクサンデルの頭部の聖遺物》(ブリュッセル王立美術館),《聖霊降臨の祭壇》(クリュニー美術館),《スタブロの携帯用祭壇》(ブリュッセル王立美術館)など,エマイユを施した多くの優れた金銀細工が制作された。こうした土壌の中から,第3の偉大な工芸家ニコラ・ド・ベルダンが生まれる。彼は1181年,《クロスターノイブルクの祭壇》の51枚から成るエマイユ板を完成した。彼の才能はエマイユのみではなく,トゥールネ大聖堂の《聖母の聖遺物箱》(1205)の浮彫や小像において,すでに盛期ゴシック大彫刻を予告する量塊表現を見せている。やがて13世紀前半には,逆にモザン地方の金工品の中にフランス・ゴシック美術の影響が顕著になり(アーヘンの《聖母の聖遺物箱》1215-37),モザン美術は徐々にその独自性を失っていった。
執筆者:馬杉 宗夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報