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モンロー主義 モンローしゅぎMonroe Doctrine

翻訳|Monroe Doctrine

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

モンロー主義
モンローしゅぎ
Monroe Doctrine

1823年 12月2日にアメリカ第5代大統領 J.モンローが議会へ送った教書のなかで述べた原則。おもな内容は,(1) アメリカ大陸は,今後ヨーロッパ諸国によって将来の植民の対象と考えられるべきではないこと,(2) アメリカはヨーロッパの政治に介入しないこと,(3) ヨーロッパ諸国の圧迫その他の方法による西半球諸政府に対するいかなる干渉もアメリカへの非友好的意向の表明とみなすこと,であった。以後モンロー主義はアメリカの対外的主張として,しばしば表明されたが,国際政治の動向に対応してその解釈も意味も変遷した。たとえば 1845年 J.ポーク大統領は,アメリカ大陸,特に北アメリカにおける現状維持の正当化のためにこの原則を主張した。また T.ルーズベルト大統領は,ラテンアメリカ諸国に対するアメリカの干渉を正当化するための根拠としてモンロー主義を主張した。その後,1933年の第7回汎米会議でアメリカは干渉権の放棄を公式に表明した。しかし第2次世界大戦後も,アメリカの中南米政策にみられるように,西半球におけるアメリカの優勢と支配を維持するという意味で T.ルーズベルトのような主張は現在も残っているといえるが,それは次第にモンロー主義としては主張されなくなってきている。

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デジタル大辞泉の解説

モンロー‐しゅぎ【モンロー主義】

欧米両大陸の相互不干渉を主張する米国の外交政策の原則。1823年、モンロー米大統領が、植民地主義と、ラテン‐アメリカ諸国の独立に対する欧州諸国の干渉に反対して、教書の中で行った宣言に基づく。以後、内容・意味を変えながらも、米国外交の基本となった。

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百科事典マイペディアの解説

モンロー主義【モンローしゅぎ】

1823年米国大統領モンローが表明した外交原則。ヨーロッパ諸国が西半球に新たに植民地をもつことおよび古い政治制度をもちこむことに反対。また,ヨーロッパ諸国による西半球諸独立国への圧迫・干渉は米国に対する圧迫・干渉とみなし,他方,米国はヨーロッパの問題には関与しないと主張した。
→関連項目アダムズクリーブランド孤立主義中野正剛

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世界大百科事典 第2版の解説

モンローしゅぎ【モンロー主義 Monroe Doctrine】

アメリカの対外政策の伝統的基本原則。西半球におけるヨーロッパ諸国の勢力拡張に反対する立場,またそれに関連して西半球における自国の優越を主張する立場をいう。1823年にモンロー大統領は,ヨーロッパの神聖同盟諸国がスペインから独立したラテン・アメリカ諸国に干渉して君主政を押しつけ,それらの国々を神聖同盟に結びつけようとしたことに反対し,また西半球においてヨーロッパ諸国が植民地を拡大することへの反対を表明した。

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大辞林 第三版の解説

モンローしゅぎ【モンロー主義】

欧米両大陸の相互不干渉を主張するアメリカ合衆国の外交原則。1823年にモンロー大統領がラテン-アメリカ諸国独立に対するヨーロッパの干渉を拒否する宣言を発したことに基づく。次第に拡大解釈され、他のアメリカ諸国への影響力行使に利用された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

モンロー主義
もんろーしゅぎ
Monroe Doctrine

アメリカ合衆国の基本的外交方針の一つ。新世界をヨーロッパから区別し、両者の距離を保とうとする姿勢は、すでにアメリカ独立革命のころからみられたが、1823年に第5代大統領モンローが初めてこの立場を明確に示した(モンロー宣言)ことから、その外交方針は「モンロー主義」とよばれる。
 モンロー宣言は、二つの背景をもっていた。一つには、1821年、ロシアは北緯51度以北の北米太平洋岸地域をロシア領とする布告を発したが、これに対してアメリカ国務長官J・Q・アダムズは、新大陸はもはやヨーロッパの植民の対象とはならないという、植民地主義の否定を表明していた。一方イギリスは、1810年代にスペインから独立したラテンアメリカ諸国へのヨーロッパ列強、とりわけフランスの干渉を恐れ、23年に外相カニングを通して干渉反対の英米共同宣言を提案した。しかし、イギリスへの不信感から合衆国の単独宣言を主張したアダムズの意見が採用され、同年12月2日、大統領モンローは議会への教書で、先の植民地主義の否定を繰り返すとともに、アメリカとヨーロッパの相互不干渉の原則を表明し、ラテンアメリカ諸国へのいかなる干渉も、合衆国に対する非友好的態度とみなすことを宣言。
 モンロー主義はその後繰り返し表明され、合衆国の基本的外交原理の一つとして確立されたが、時代の推移とともに拡大解釈されるようになり、とりわけ20世紀に入ると、合衆国のみが新大陸諸国に干渉することを正当化する原理となった。[竹本友子]

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世界大百科事典内のモンロー主義の言及

【アダムズ】より

…17年からモンロー大統領の下で国務長官をつとめ,18年のA.ジャクソンのフロリダ侵入を弁護し,19年フロリダ併合とオレゴン地方の英米共同管理協定に手腕をふるった。折からのラテン・アメリカ諸国の独立に際し,ヨーロッパ列強の干渉に反対する立場を明らかにするようモンローに進言し,イギリス外相カニングの共同宣言の提案を退けて合衆国が単独でモンロー主義を宣言するうえで大きな役割を果たした。24年の大統領選挙では一般投票では2位だったが,下院の決選投票でH.クレーの票をえて当選した。…

【アメリカ合衆国】より

…【岩島 久夫】
【外交】

[歴史的概観]
 アメリカは,東に大西洋があり西に広い西部があるという地理的条件に恵まれ,独立からしばらくの時期を除けば,19世紀末に至るまで,軍事や外交に心を労することなしに,国の安全を確保し,領土の拡張を達成することができた。この間,ヨーロッパの紛争にかかわりあうことを避ける(孤立政策)とともに,また西半球をヨーロッパ中心の国際関係から独立させること(モンロー主義)をねらった。19世紀末になると,アメリカはヨーロッパ諸国に対して,モンロー主義の名において西半球における政治的優越を主張するようになった。…

【大西洋】より

…ウィーン会議以後,フランス革命前の状態への復帰を狙ったメッテルニヒらは独立運動の抑圧をはかったが,この地域を事実上の植民地(〈非公式帝国〉ないし〈自由貿易帝国〉とよばれる)にすることを望んでいたイギリスはこれを支持せず,一方,合衆国はいわゆる〈モンロー宣言〉(1823。モンロー主義)を発して,西半球に対するヨーロッパの干渉を拒否した。このような国際環境に恵まれて,中・南米各植民地はS.ボリーバルらの指導のもとに次々と独立を達成した。…

【フォート・ロス】より

…アレウト列島,アラスカを領有したロシアは,1799年に国策会社である露米会社を設立,主としてオットセイ捕獲のため1812年サンフランシスコ北方に大規模な基地を建設しはじめた。こうしたロシアの太平洋岸進出が,モンロー主義宣言(1823)の一つの背景となっている。その後オットセイの減少などとともに,同基地は41年アメリカ人開拓者J.A.サッターに売り払われた。…

※「モンロー主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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