ヤン・ヨーステン(読み)やんよーすてん(英語表記)Jan Joosten van Lodenstijin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヤン・ヨーステン」の意味・わかりやすい解説

ヤン・ヨーステン
やんよーすてん
Jan Joosten van Lodenstijin
(?―1623)

耶揚子(やようす)ともいう。オランダ船員朱印船貿易家。デルフト市の名家に生まれ、長じてロッテルダムの東方貿易会社が1598年に東洋貿易に派遣した船隊中の一隻リーフデ号Liefdeに乗り組み、船長クアーケルナック、航海士のイギリス人ウィリアム・アダムズ三浦按針(あんじん))らとともに、1600年(慶長5)4月豊後(ぶんご)国佐志生(さしう)(大分県臼杵(うすき)市)に漂着した。徳川家康の招きで江戸に出、アダムズとともに家康の外交・貿易の顧問となり、世界情勢の説明などにあたった。家康はその覇権確立のための巨額の財源の一つを貿易に求めていたが、ポルトガル人との貿易が豊臣(とよとみ)氏や西国大名に握られ、またイエズス会が深く介在していたため、彼ら以外との海外貿易の開始を求めて、アダムズとヤン・ヨーステンとを召し抱えた。ヤン・ヨーステンは江戸に居宅を与えられ、日本婦人と結婚して子女をもうけた。八重洲河岸(やえすがし)(東京都中央区)なる地名は彼の宅地にちなむという。彼は、朱印状を得て連年コウチシナ(中部ベトナム)、シャムタイ)、パタニ(マライ半島中部)、カンボジアトンキン北ベトナム)など各地に手広く貿易を営んだ。1609年平戸(ひらど)にオランダ商館が開設されて以後、蘭(らん)館と幕府との間にあって貿易の発展に尽力したが、彼の事業はしだいに振るわず、帰国を思い立ち、持ち船でバタビアに渡り、東インド政庁と交渉したが不調に終わり、日本への帰航途中難破して死亡した。

[沼田 哲]

『岡田章雄著『三浦按針』(1944・創元社)』

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百科事典マイペディア 「ヤン・ヨーステン」の意味・わかりやすい解説

ヤン・ヨーステン

オランダの貿易家。日本名は耶楊子。1600年リーフデ号アダムズ(三浦按針)とともに豊後(ぶんご)に漂着。徳川家康に信任されて江戸に居住。日本人と結婚。朱印状を受けて朱印船貿易に活躍した。バタビアから日本への帰途,遭難。江戸の八重洲(やえす)河岸の名は彼の居住地に由来。

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朝日日本歴史人物事典 「ヤン・ヨーステン」の解説

ヤン・ヨーステン

没年:1623(1623)
生年:1556?
17世紀のオランダ船船員,朱印船貿易家。オランダのデルフト市生まれ。東インド向けのオランダ船リーフデ号に乗り組み,イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)らと共に慶長5(1600)年豊後(大分県臼杵市)に漂着,のち江戸に出て徳川家康の信任を得,世界情勢の説明などを行う。同17年から10年間,交趾(コーチ),太泥(パタニ),東京(トンキン)などに朱印船を派遣,南海貿易に当たる。同14年オランダ商館が平戸に開設されてから,幕府と商館の仲介役としても活躍した。江戸に住み日本人女性との間に娘をもうけた。その住居地を訛って八重洲町と呼ぶようになったと伝えられる。元和9(1623)年バタビアから日本へ帰航の途中,インドシナで難破し死去した。

(小山幸伸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヤン・ヨーステン」の意味・わかりやすい解説

ヤン・ヨーステン
Jan Joosten van Lodenstijn

[生]1557以前.デルフト
[没]1623.10以前.パラセル島
オランダの船員。漢名,耶楊子。オランダ船『リーフデ』号に乗組み W.アダムズ (三浦按針) らとともに慶長5 (1600) 年3月豊後に漂着。江戸に出て徳川家康に仕え,宅地を与えられ日本婦人と結婚し,その間に子女があった。その居住地は彼の名をなまって八重洲河岸と呼ばれるようになったと伝えられる。朱印状を得て日本の貿易家たちに伍してシャム,コーチシナ,カンボジア,トンキンにおもむき手広く貿易を営んだ。オランダ東インド会社の日本貿易開始以後は平戸商館に協力した。コーチシナから日本へ帰航の途次難破して死亡。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ヤン・ヨーステン」の解説

ヤン・ヨーステン
Jan Joosten van Loodensteijn

1556?~1623

オランダ船の航海士,朱印船貿易家。1598年ロッテルダムの貿易会社のリーフデ号に乗り組み,1600年(慶長5)4月豊後国臼杵湾に漂着。同船の航海長ウィリアム・アダムズとともに徳川家康に外交顧問として厚遇され,江戸に屋敷(八重洲河岸の地名は彼の居住地にちなむ)を賜り日本女性と結婚,耶揚子(やようす)と称した。09年平戸オランダ商館の開設後は,商館と幕府との交渉に協力し,また朱印船貿易に従事し,12~21年(慶長17~元和7)の間朱印状を得てシャム,トンキンなどに派船した。オランダへの帰国交渉のためバタビアに渡航した際,遭難し溺死した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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