フランスの主導下にドイツ諸邦が結成した同盟。(1)1658年ドイツ諸邦とフランスがウェストファリア条約の遵守と反オーストリア勢力の強化をめざして締結したが,68年に解体した。(2)1806-13年,ナポレオンの保護下にバイエルンなど中小ドイツ諸邦が参加した同盟。別名ライン連邦。アウステルリッツの戦(1805)によってロシア・オーストリア軍を破ったナポレオンは,プロイセン,オーストリア両国に対抗する第三勢力を育成するために西南ドイツ領邦君主にこの同盟を結成させ,このため神聖ローマ帝国は崩壊するに至った。加盟邦(当初16ヵ国)は,それぞれ主権は保有するがフランスと攻守同盟を結び,各邦派遣の軍隊(総計6万3000人)によるフランスへの援助を義務づけられた。ティルジットの和約(1807)以後中部・北部ドイツにも拡大,加盟邦36ヵ国,兵力12万に達したが,ライプチヒの戦(1813)でナポレオン軍がオーストリア・プロイセン軍に敗れると,これを境に,加盟邦が相次いで対仏連合軍側に転じたため解体した。
執筆者:末川 清
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①〔1658〕ライン川上・中流域の西南ドイツ中小国が結成した同盟。フランスも加盟し,フランスの対オーストリア政策に利用された。
②〔1806〕ライン連邦(連盟)ともいう。ナポレオンによってドイツ内につくられた諸国同盟。ナポレオンを保護者とし,もとマインツ大司教ダールベルクを総裁として,連邦君主会議により運営された。連邦にはプロイセン,オーストリア2大国を除く全ドイツ諸国が加盟するに至り,各国でナポレオン法典導入などの改革が行われたが,連邦自体の活動としては,ナポレオンに6万3000の兵力を提供したのみ。13年ナポレオンの没落とともに解体。
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1806年7月、ナポレオン1世の保護下で結ばれたライン流域の南西ドイツ諸国の同盟。ライン連邦ともよばれる。加盟国は最初16か国で、国土拡大、王国(バイエルン、ウュルテンベルク)や大公国(バーデンなど)への昇格と引き換えにナポレオンに6万3000の兵とその統帥権を与え、同年8月1日神聖ローマ帝国からの離脱を宣言した。同月6日の同盟成立は帝国の崩壊をもたらし、ナポレオンにドイツ支配の支柱を与えたが、同時に南西ドイツの多数の小国家の消滅によりドイツ統一への一歩前進をも意味した。同盟は11年までに直接統治地域とプロイセン、オーストリア2国を除く全地域に拡大され、多くの国でナポレオン法典導入や改革も行われたが、13年の解放戦争により消滅した。
[岡崎勝世]
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