改訂新版 世界大百科事典 「ラスコーリニキ」の意味・わかりやすい解説
ラスコーリニキ
raskol'niki
17世紀後半にロシア正教会で行われた典礼改革,いわゆる〈ニコンの改革〉の受入れを拒否して正教会から分離した分派の総称。ラスコーリニキとは分離派の意味だが,分離の理由として旧来の典礼に固執したため古儀式派とも呼ばれる。モスクワ総主教ニコン(在位1652-66)がツァーリ・アレクセイの信を得て懸案の典礼改革に乗りだしたとき,それが典礼書の改訂と典礼慣行の修正といった信仰の本質とはかかわりのない問題であったにもかかわらず,その背後に集権主義的国家教会の圧力を見てとった聖職者と信者はその改革に従わず,分派を形成した。この分派は1667年に正教会によって破門され,以降,国家権力の迫害にさらされることになった。指導者の長司祭アバクムは2度にわたって追放され,82年に火刑に処せられた。
ラスコーリニキは,一部の貴族,聖職者,農民,商人など広範な階層から成り,一種の社会運動の様相を見せたため,分離後の約80年は激しい弾圧をこうむった。しかしピョートル1世の近代化政策はラスコーリニキの勢力をそぐどころか,かえってそれを拡大させた。その間に司祭の補充が大きな問題となった。それは,正教会から分離した際主教を擁しなかったので,司祭の叙階が困難になったからである。この問題をめぐってラスコーリニキのなかで分裂がおこり,あくまで司祭の存在を前提とした有司祭派と司祭の権威を否定した無司祭派が現れた。無司祭派は,いわば教会制度という歯止めを否定したわけで,その結果,無数の狂信的セクトに分裂して,全体としての勢力は弱まった。有司祭派は,正教会から離脱した司祭を受け入れることによってなんとか教勢を保ち,19世紀前半のニコライ1世の迫害にも耐えたが,1846年に正教会から破門されたボスニアの主教アンブロシーAmbrosiiを迎えて教会制度を確立した。有司祭派はその後勢力をのばし,81年には政府の公認を得た。現在では,ラスコーリニキのうち,有司祭派はロシア各地で一定の勢力を保っており,無司祭派はおもにバルト海沿岸で多少の勢力を有している。
執筆者:森安 達也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報