フランスの詩人。《寓話詩》によって広く知られる。シャンパーニュ州シャトー・ティエリの森林河川監督官の長男に生まれ,郷里とパリで教育を受け,パリのオラトリオ会神学校に入るが1年でやめる。その後パリで法律を学ぶかたわら同郷の親友モークロアやフュルティエールらと文学を談じ詩作を試みる。結婚し父の官職を継いだが文学に引かれてパリと郷里を往復。54年喜劇《宦官》を初めて刊行。知人を介して当時最大の文芸庇護者,財務総監フーケのお抱え詩人となる。61年フーケが失脚投獄された後はオルレアン公未亡人の侍従をしながらヌベール,ブイヨンらのサロンに出入りし,コントや寓話を発表し始める。この二つのジャンルは晩年まで続けて手がけた。72年以後はいっさいの官職を失い,家も売り,妻子を郷里に置いてひとりパリで,73年から20年間はラ・サブリエール夫人の家に寄食,夫人の死後は銀行家デルバール家に移って2年後にそこで死去した。
〈多種多様こそわが座右の銘〉を標榜した彼は,折々の献呈用の各種の詩編,聖人伝の詩,オペラ台本,キナを歌った科学詩まで多くのジャンルを試みた。プラトンから同時代の小説まで手当りしだいに多読し,17世紀作家には珍しくラブレー,マロも師と仰ぎ,詩句や散文の洗練に励むと同時に古いフランス語の豊かさを,とくに《コントContes》(1665-85)で生かそうとした。寓話はイソップの,コントはボッカッチョとアリオストの模倣から出発したように,主として古代に範を求める古典主義的創作態度を貫き,〈わが模倣は隷属に非ず〉とその真髄を喝破した。フーケの饗宴でモリエールの《うるさがた》を観て〈今より後は一歩も自然を離れるべからず〉と,誇張を排し人間の自然な理を求める新しい文学への共鳴を述べ,ラシーヌやボアローとも多くの点で文学上の理念を共有したが,彼らと一派をなすことはなく,彼らのような宮廷作家の寵遇も得られなかった。アカデミー入会も《コント》の猥褻(わいせつ)が問題にされ1年待たされて84年ようやく許された。《寓話詩》の名声ゆえに他の作品が閑却されるきらいがあるが,初期の《アドニス》(1658),散文の物語《プシシェとキュピドンの愛》(1669)などもきわめて完成度の高い作品であり,《コント》各集の序文は文学論として,《リムーザン紀行》は書簡文として傑出しており,実生活の不器用さ,怠惰,まぬけぶりを伝える各種の逸話とは裏腹に,死の直前まで鋭い感性と緻密な計算と惜しみない努力を創作に注いだ作家魂を証明する。《寓話詩Fables》は1668年から93年まで約240編を順次公にした畢生の代表作で,イソップ,インドのピルパイその他古い素材,独創の素材を縦横にこなし,古典的自由詩の変化に富む詩形を駆使して〈宇宙を舞台にした百幕の芝居〉,人間喜劇を現出,追随を許さぬ〈文化の奇跡〉(ジッド)として,その清澄で絵画的喚起力と音楽性に富む詩句は,伝統的に子どもたちにも暗誦されて現代に至っている。
執筆者:二宮 フサ
イギリス領北アメリカ,連合カナダ植民地の政治家,首相(在職1848-51)。ロワー・カナダに生まれ,1830年,ロワー・カナダ立法議会議員に当選して以来政界に入る。L.J.パピノーの政治民主化運動を支持するが,穏健派であって武装蜂起には参加しなかった。41年の連合カナダ植民地の成立とともにフランス系カナダ改革派の指導者として,イギリス系カナダ改革派のR.ボールドウィンと組んで組閣,自身は法務長官を務めた。第1次ボールドウィン=ラ・フォンテーヌ内閣は43年総督メトカルフとの対立で辞職し5年間野にあったが,48年より寛大な帝国政策を遂行しようと就任したエルギン総督の下で改革派が選挙に大勝し,ボールドウィンとラ・フォンテーヌが組閣,連合カナダ植民地における責任政府制度が実現した。49年,彼は保守派に不人気な反乱損害補償法を議会に上程して通過させ,この新たに獲得した自治を不動のものとした。このころを絶頂期として,以後のラ・フォンテーヌは保守的になっていったといわれる。51年,公生活より引退。
執筆者:大原 祐子
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フランスの詩人。シャンパーニュ地方の都市シャトー・チエリーに生まれる。父親から河川森林管理人の職を受け継いだが、パリに出て文人たちとの交遊を楽しみ、その職を放棄した。35歳ごろ、財務長官フーケの知遇を得て宮廷詩人となったが、フーケ失脚後はオルレアン大公夫人やラ・サブリエール夫人Mme de La Sablière(1636―93)らの屋敷に寄食して、その夢想家的性格や天真爛漫(らんまん)さで、数多くのおもしろい逸話を残して生涯を終えた。作品には、ボッカチオらの風流譚(たん)をフランスの詩に書き換えた陽気な小話集『コント』(1665~82)、小説『プシケとキュピドンの恋』(1669)などがあるが、代表作は寓話(ぐうわ)集『ファーブル』(1668、78、94)である。これはイソップ(アイソポス)などの動物寓話をフランス語の詩に書き改めたもので、人間の悪癖の指摘や、良識に基づく人生の教訓のほかに、ルイ14世の宮廷生活の風刺があるが、詩人はこれらの詩のなかで哲学を論じたり、自由なおしゃべりまでした。彼の詩には17世紀古典主義文学には珍しい清新な自然感情もあり、その自然で清澄なフランス語の詩は実はまったく完璧(かんぺき)な詩の技巧のもたらすものであり、古典主義文学の珠玉といわれるものである。
[河合 亨]
『川田靖子訳『ラ・フォンテーヌ寓話』三冊(1979・玉川大学出版部)』▽『窪田般彌他訳、G・ドレ画『ラ・フォンテーヌ寓話』(1969・社会思想社)』
ベルギーの政治家、法律家。ブリュッセルに生まれる。ブリュッセル自由大学で学び、1877年に博士号を取得、のち弁護士となった。1893年から1940年までブリュッセル自由大学の法学教授を務めた。その間、1895年社会党から上院議員に当選、1919年から1932年までは副議長についた。
彼は社会主義者であったが、また平和主義者でもあった。1891年に創設された国際平和局International Peace Bureauで初期から積極的に活動し、1907年から1943年までその局長を務め、列国議会同盟にも参加した。さらに、のちの国連教育科学文化機関(ユネスコ)の原型となった国際協会連盟を設立した。また『偉大な解決』The Great Solution: Magnissima Charta(1916)ほか、多くの平和問題についての著作を残している。1913年、長年にわたり国際平和を推進してきた功績によりノーベル平和賞を受賞した。その後、1919年の第一次世界大戦終結に関するパリ講和会議、1920年、1921年の国際連盟総会にベルギー代表として参加した。
[編集部]
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1621~95
フランス古典主義の詩人。『寓話詩』の作者として名高く,そこで彼は動物たちの生態を豊かな感受性をもってあざやかに描くとともに,動物の姿を借りて,人間と社会の種々相をとらえている。ほかに『コント』などの作品がある。
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…イエズス会が教化に用いていたイソップ寓話集が宣教師によって日本に伝えられたのが天草本《エソポのハブラス》(1593)で日本におけるヨーロッパ文学翻訳の嚆矢(こうし)となった。ルネサンス期フランスでは寓話として見るべき作品はないが,17世紀にJ.deラ・フォンテーヌが韻文による《寓話》(1668‐94)を刊行して伝統を一新した。ラ・フォンテーヌはイソップ寓話のみならずインドの《パンチャタントラ》その他からも題材を得て約240編のみごとな詩編を創造し,従来いわば一般的な世間知の集成であった寓話を個性的な芸術作品とした。…
…この時期には,パリをまねた地方都市のサロンも多くなった。17世紀にはそのほか,ラ・ロシュフーコーの《箴言集》や,J.deラ・フォンテーヌの《寓話》を生み出したサブレ夫人のサロン,多少軽佻な趣があったスカロン夫人Mme.Scarron(1635‐1719。のちのマントノン夫人marquise de Mantenon)のサロンなどがあり,17世紀末には自由思想家(リベルタン)たちを集めたニノン・ド・ランクロNinon de Lenclos(1620‐1705)のサロンも出現した。…
…カナダ史では過激な変革は排され,漸進的な改革が目的を達成する。マッケンジー,パピノーの運動はより穏健なR.ボールドウィン,L.H.ラ・フォンテーヌらに受け継がれたのであった。 しかし,蜂起の失敗は両植民地に大きな影響を与えることになった。…
※「ラフォンテーヌ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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