改訂新版 世界大百科事典 「リ朝」の意味・わかりやすい解説
リ(李)朝 (リちょう)
Ly
ベトナム最初の長期安定王朝。1009-1225年。ベトナムは10世紀に中国の支配から独立したが,クック(曲),ゴ(呉),ディン(丁),レ(黎)氏らの各勢力が半世紀間興亡を繰り返して安定しなかった。リ(李)朝の祖リ・コン・ウアン(李公蘊。太祖。在位1009-28)はハバック省に生まれ,前レ(黎)朝(980-1009)に仕えて殿前指揮使となり,皇帝レ・ロン・ディン(黎竜鋌)の死後,自立して帝位につき,都をホアル(華閭)からタンロン(昇竜。現ハノイ)に遷都した。タンロンは以後,長くベトナムの首邑となった。リ朝は2代タイトンThai Tong(太宗。在位1028-54),3代タイントンThanh Tong(聖宗。在位1054-72),4代ニャントンNhan Tong(仁宗。在位1072-1127)の間に最も栄え,内治と外征に成功した。しかし13世紀に入ると地方勢力の反乱が続き,7代カオトン(高宗。在位1175-1210)の時には沿海部に勢力をもつチャン(陳)氏の台頭を許した。1224年,チャン・トゥ・ドTran Thu Do(陳守度。1193-1264)は8代フエトン(恵宗)に強請してその次女チエウホアン(昭皇)に譲位させ,彼女を自分のおいのチャン・カインTran Canh(陳煚(ちんけい))に嫁がせてリ朝を滅ぼした。
リ朝は中央に太師,太傅,太保,左右参知政事などの諸官を置き,地方に路・府・州制を敷き,戸籍・軍制を組織したと記録される。しかし実際はスークアン(使君)時代からの地方勢力が半独立的な割拠を続け,リ朝の直接統治はハノイ以南の限られた地にすぎなかったともいわれる。刑律についても,2代タイトンが中国の法を導入して刑書を頒行したとされるが,土着的な刑罰体系が相当に濃厚であったといわれる。しかし皇帝制度の下に安定したベトナムは,中国に対して強力な抵抗力をつけた。宋の神宗は王安石の献策によってベトナム征服を企てたが,1075年に4代ニャントンはリ・トゥオン・キエットLy Thuong Kiet(李常傑。1030-1105)に命じて広東,広西に進攻させ,76年には来攻した宋軍を迎撃して大勝利を得,79年に講和を結んでベトナムの独立を中国に確認させた。その一方で,当時宋の南海貿易を仲介して栄えていたチャンパへの侵略を開始した。1044年にタイトンはチャンパの都ビジャヤ(現,ビンディン地方)を落として王作斗(ジャヤシンハバルマン2世)を斬殺し,5000余人を捕虜とした。次いで69年タイントンは再びチャンパを討って王制矩(ルドラバルマン3世)と5万人余を捕虜とし,さらに王返還の代償として地哩・麻令・布政3州(現,ビンチティエン省)を奪い,ベトナム人の中部ベトナム進出の端緒をつくった。
リ朝期には仏教信仰が盛んになった。リ・コン・ウアンをはじめ諸帝は宋から経典を移入し,またハノイの一柱寺など各地に仏寺を建て,とくに禅宗系仏教を保護した。その一方,儒教の導入も積極的に図られ,70年ハノイに文廟が建てられ,75年には初めて科挙が実施され,76年には国子監が開設されて経書が講じられた。リ朝は独立まもないベトナムが,中国から文物制度を急速に摂取して,中央集権体制を整えようとした過渡期的な王朝であったといえよう。
執筆者:桜井 由躬雄
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