日本大百科全書(ニッポニカ) 「フォンテンブロー派」の意味・わかりやすい解説
フォンテンブロー派
ふぉんてんぶろーは
école de Fontainebleau
16世紀フランスの、フォンテンブロー宮の造営・装飾に携わった芸術家たち、さらに宮廷周辺でその影響下にあった芸術家たちを含むグループ。通常、第一次、第二次に分類されるが、より大きな意味をもつのは第一次フォンテンブロー派である。
1530年、パリ近くのフォンテンブロー宮に宮廷を置くことを決意したフランソア1世が、イタリアからロッソ・フィオレンティーノを招いたとき、このフランス・ルネサンスのもっとも重要な局面をなすフォンテンブロー派が始まる。ロッソのあと、彼の助手をつとめ、またロッソ没後は総監督となったプリマティッチョ、さらにニッコロ・デラバーテたちも招かれ、主としてこれらイタリア・マニエリストの主導性のもとに、第一次フォンテンブロー派の活動がなされる。フォンテンブロー宮には、ロッソの「フランソア2世の間」、プリマティッチョの「エタンプ公女の間」などが保存されているが、同宮殿の装飾には、ほかにも多くのイタリア人およびフランス人芸術家が携わっている。また周辺には、画家のフランソア・クルーエ父子、アントアーヌ・カロン、彫刻家のジャン・グージョン、さらに「フローラの画家」と通称される氏名不詳の画家などがいる。
フランソア1世はイタリア・ルネサンス諸公の宮廷を範とした。事実、フォンテンブロー宮は知的・芸術的活動がきわめて盛んになり、ルネサンス的雰囲気を漂わせるが、他方で、招かれたイタリア人芸術家たちがいずれもマニエリストであったため、フランスはルネサンスとマニエリスムを同時に経験することになる。さらに、これに宮廷の趣味が加わり、細長く引き伸ばされた人体表現、官能的趣味、神秘的な寓意(ぐうい)趣味などが混在して、きわめて特異なフォンテンブロー様式を生み出した。
アンリ4世の統治(1589~1610)から始まる第二次フォンテンブロー派は、前期の趣味を継承しているが、トゥッサン・デュブルイユ、アンブロアーズ・デュボアなどフランドル出身の画家が多く、第一次よりも17世紀バロックの現実性・動性へと接近している。
[中山公男]