16世紀フランスで,フォンテンブロー宮殿を中心に活動した美術家たちとその芸術を指す。2期に分けられ,第1期はフランソア1世が宮殿の大改築を意図して,イタリアから1530年,ロッソ・フィオレンティーノ,32年プリマティッチョを招き,彼らはチェリーニをはじめ多くのイタリア人美術家を率いて制作した。それはイタリア・マニエリスムのフランス移植を意味し,フランスの古典主義的伝統の基盤を形成するものであったが,70年のプリマティッチョの死をもって区切りとする。第2期は,16世紀末からアンリ4世の治下に,フランドルの画家たちが参加した時期の,国際マニエリスムの様式をいう。
第1次フォンテンブロー派のロッソとプリマティッチョの2人は,1528年に着工された宮殿の内部装飾を手がけ,種々の企画を遂行した。ロッソの〈フランソア1世のギャラリー〉とプリマティッチョがアバーテの協力を得て完成した〈アンリ2世のギャラリー〉などはフォンテンブロー宮殿に現存する。しかし彼らの他の壁画作品の大半は破壊,もしくはたび重なる修復によってかなり様相を変えている。宮殿の内壁は,碩学の宮廷詩人たちの着想をもとに,神話と寓意を題材とした意匠で埋め尽くされる。君主国家の寓意といえども,まだ後の世紀に見られるような豪壮なものではなく,知的で洗練され,詩想にあふれた世界が表現されており,またここで新たに出現する女性の裸体表現は,ことに優美で官能的である。さらに〈フランソア1世のギャラリー〉においては,壁画を縁取るスタッコ(化粧しっくい)が丸彫彫刻的に用いられ,造形,主題ともに壁画との関連性を与えることで三次元的装飾空間の創造に成功している。また42年ころから一連の複製版画が制作され始めるが,それらを通じて第1次フォンテンブロー派の様式は急速に普及する。とりわけロッソの装飾様式の影響は大きく,〈鞣革細工〉(カルトゥーシュ)と呼ばれる装飾デザインはあらゆる装飾芸術の領域に浸透した。宗教美術としてはロッソの《ピエタ》(1535ころ。ルーブル)のほか,彫刻家ボンタンPierre Bontemps(1507ころ-68)との共作になる〈フランソア1世廟〉,プリマティッチョと彫刻家G.ピロンの共作になる〈アンリ2世廟〉(両者ともサン・ドニ大聖堂)といった優れて独自性の高い墓碑芸術が生まれたが,概して宗教作品はまれであり,また当時の宗教的騒乱を反映することもきわめてまれであった。40年にロッソが急死した頃から,アカデミックな古典主義への傾向が芽生える中で,フォンテンブロー派の強い影響下に,彫刻家グージョン,肖像画家クルーエ,建築家デュ・セルソーなどフランス人の活躍も開始される。プリマティッチョの下で制作に従事していたカロンAntoine Caron(1520ころ-1600ころ)は,後に宗教戦争の虐殺の場面と祭礼の行列とを同様な明るい色調で描き出した。
第2次フォンテンブロー派は,デュブルイユToussaint Dubreuil(1561-1602),デュボアAmbroise Dubois(1543-1614),フレミネMartin Fréminet(1567-1619)の3人に代表される画家たちが活動し,やはり宮殿の装飾を手がける。彼らは第1次の様式を継承しながら,同時にフランドル絵画の様式をとり入れた。国際マニエリスムの最終的段階に,なおその反響を伝える精力的な制作活動が続いていたことは記憶されてよい。なお,19世紀中ごろ,フォンテンブローの森にある小村バルビゾンの風景を描いたバルビゾン派の別名として〈フォンテンブロー派〉の名が用いられることもある。
執筆者:岩井 瑞枝
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16世紀フランスの、フォンテンブロー宮の造営・装飾に携わった芸術家たち、さらに宮廷周辺でその影響下にあった芸術家たちを含むグループ。通常、第一次、第二次に分類されるが、より大きな意味をもつのは第一次フォンテンブロー派である。
1530年、パリ近くのフォンテンブロー宮に宮廷を置くことを決意したフランソア1世が、イタリアからロッソ・フィオレンティーノを招いたとき、このフランス・ルネサンスのもっとも重要な局面をなすフォンテンブロー派が始まる。ロッソのあと、彼の助手をつとめ、またロッソ没後は総監督となったプリマティッチョ、さらにニッコロ・デラバーテたちも招かれ、主としてこれらイタリア・マニエリストの主導性のもとに、第一次フォンテンブロー派の活動がなされる。フォンテンブロー宮には、ロッソの「フランソア2世の間」、プリマティッチョの「エタンプ公女の間」などが保存されているが、同宮殿の装飾には、ほかにも多くのイタリア人およびフランス人芸術家が携わっている。また周辺には、画家のフランソア・クルーエ父子、アントアーヌ・カロン、彫刻家のジャン・グージョン、さらに「フローラの画家」と通称される氏名不詳の画家などがいる。
フランソア1世はイタリア・ルネサンス諸公の宮廷を範とした。事実、フォンテンブロー宮は知的・芸術的活動がきわめて盛んになり、ルネサンス的雰囲気を漂わせるが、他方で、招かれたイタリア人芸術家たちがいずれもマニエリストであったため、フランスはルネサンスとマニエリスムを同時に経験することになる。さらに、これに宮廷の趣味が加わり、細長く引き伸ばされた人体表現、官能的趣味、神秘的な寓意(ぐうい)趣味などが混在して、きわめて特異なフォンテンブロー様式を生み出した。
アンリ4世の統治(1589~1610)から始まる第二次フォンテンブロー派は、前期の趣味を継承しているが、トゥッサン・デュブルイユ、アンブロアーズ・デュボアなどフランドル出身の画家が多く、第一次よりも17世紀バロックの現実性・動性へと接近している。
[中山公男]
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…それは,パスカルが語る〈幾何学の精神〉に対する〈繊細の精神〉と言ってもよい。この精妙な,洗練された感受性こそ,中世の《愛に捉われた心》の写本挿絵からフォンテンブロー派を経て艶麗なロココの美術へ,さらには〈アンティミスト〉と呼ばれたボナールやビュイヤールの洗練された表現にまでつながるフランス美術のもう一つの重要な特質である。人間の心の微妙なゆらめきを,ひめやかな絹の手触りと薄暮の田園の哀愁をこめて描き出した洗練の極致ともいうべきワトーの作品を思い出してみれば,このことはおのずから明らかであろう。…
…フランスのフォンテンブロー派の中心として制作したイタリア・マニエリスムの画家,建築家,装飾家。ボローニャ生れ。…
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[第2期]
マニエリスムの第2期は1527年のローマ劫掠に始まり,トリエント公会議の開催中(1545‐63)にわたる反宗教改革の異端審問の時期にあたり,この間には,イタリアの全般的危機と新しい絶対王政の確立による新封建化という情勢を反映して,芸術はより制約を受け,アカデミックな,また宗教的な色彩を帯びた。ただし,それはローマにおいてであり,フィレンツェではトスカナ公国の宮廷を中心に洗練された宮廷的マニエリスムが栄え,これはフランスのフォンテンブロー派,オーストリア,ボヘミアなどの宮廷芸術に伝わり,国際的マニエリスムとなった。以上のように,ミケランジェロの〈最後の審判〉(システィナ礼拝堂)やパオリナ礼拝堂を代表とするローマの反宗教改革的危機意識を表現するマニエリスム(セバスティアーノ・デル・ピオンボ,ダニエーレ・ダ・ボルテラDaniele da Volterra(1509‐66),ベヌスティMarcello Venusti(1512ころ‐79)など)を第1の潮流とすれば,メディチ家宮廷を中心とする耽美的マニエリスムとその国際的伝播(ブロンツィーノ,バザーリ,アルチンボルド,スプランヘル,ブルーマールトAbraham Bloemaert(1564‐1651),コルネリス・ファン・ハールレムCornelisz.van Haarlem(1562‐1638),ウィッテワールJoachim Wittewael(1560‐1638),ホルツィウス)は,もう一つのグループとしてとらえられよう。…
…フィレンツェ生れの,第一世代のマニエリストの一人。1530年以降フランスに渡り,フォンテンブロー派の形成に貢献した。バザーリによれば彼に師はなく,追随する巨匠もいなかった。…
※「フォンテンブロー派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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