ルペン(読み)るぺん(その他表記)Marine Le Pen

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルペン」の意味・わかりやすい解説

ルペン
Le Pen, Marine

[生]1968.8.5. ヌイイシュルセーヌ
マリーヌ・ルペン。フランスの政治家。フルネーム Marion Anne Perrine Le Pen。2011年に父ジャンマリー・ルペンのあとを継いで,極右政党国民戦線 FN; Front National(2018年に国民連合 RN; Rassemblement Nationalに改称)の党首に就任した。2017,2022年の大統領選挙では決選投票に進出したが,いずれもエマニュエルマクロンに敗れた。
三人姉妹の末子として育ち,1976年11月2日に父親の政治信条が反対派の爆弾テロの標的となり,住居のアパートが破壊される。1991年,パリ第2大学(パンテオンアサス大学。→パリ大学)で法学士号を取得。1992年には刑法の上級学位を得る。1992~98年パリで弁護士として働く。1998年,国民戦線の執行部に加わり,2003年まで党法務部長を務め,同年副党首に就任。翌 2004年にヨーロッパ議会議員に当選し,父とともに非同盟ブロックに所属する。その後,党内での地位を上げ,2007年には大統領選挙に立候補した父の選挙戦を仕切り,2009年の市町村議会選挙でも好成績を収めた。党勢拡大をはかるなかで,排外主義や反ユダヤ主義などの過激な主張を展開する父親と距離をおくようになり,2011年1月に国民戦線の党首に就任。2012年の大統領選挙に立候補したが,フランソア・オランド,現職のニコラ・サルコジの後塵を拝して 3位に甘んじ,決選投票には進めなかった。しかし,2002年大統領選挙の決選投票で父が獲得した得票率を上回った。
国民戦線は 2014年3月の市町村議会選挙で躍進を遂げたのち,5月のヨーロッパ議会選挙では国内第一党の快挙を成し遂げた。党の強面なイメージの払拭と党員若返りに努める一方で,40年近く党を率いてきたものの問題発言を繰り返す父親を 2015年8月に除名した。2015年11月のパリ同時テロ事件後は,国内の反イスラムムードの高まりをうけ,翌 12月の地域圏議会選挙で大きく票を伸ばした。2017年4月23日に行なわれた大統領選挙第1回投票で,ルペンはオランド政権下で財務大臣を務めた親ヨーロッパ連合のマクロンに次いで 2位となったが,5月7日の決選投票では大差をつけられ敗れた。ルペンは,国民戦線は与党と肩を並べる最大勢力となったと公言したが,翌 6月の国民議会下院)選挙では予想を大きく下回る 8議席にとどまった。なお,ルペン自身はこの選挙で初めて国民議会議員に選ばれ,ヨーロッパ議員を辞することになった。2018年6月,国民戦線は党名を国民連合に変更し,党のイメージをよりソフトな路線へと切り替えた。2022年4月24日の大統領選挙の決選投票も前回 2017年と同じ顔合わせとなり,ルペンはまたもやマクロンに敗れたものの 40%以上を得票し,存在感を示した。さらに 6月の国民議会選挙でも議席を 8から 89に伸ばし,国政に多大な影響力をもつようになった。
2025年3月31日,ヨーロッパ議会議員だった 2004~17年に公金を不正に流用したかどで,一審のパリの裁判所から禁錮 4年,執行猶予 2年の有罪判決を受けたうえに,5年間の被選挙権停止処分となり,2027年大統領選挙には出馬できない見通しとなった。

ルペン
Le Pen, Jean-Marie

[生]1928.6.20. ラトリニテシュルメール
[没]2025.1.7. ガルシュ
ジャン=マリー・ルペン。フランスの政治家,国家主義者。1972年に極右政党国民戦線 FN(2018年国民連合 RNに改称)を創設し,2011年まで党首を務め,排外主義的,反ユダヤ主義的な発言でたびたび物議をかもした。
パリ大学法学部に進学。在インドシナ・フランス軍パラシュート部隊将校を経て,ピエール・プジャード(→プジャード運動)の強い影響を受け 1956年に国民議会(下院)の最年少議員として初当選。1958年再選,1962年落選。1972年 FNを創設。1974年の国民議会選挙では得票率は 1%にも満たなかったが,1980年代から 1990年にかけて犯罪の増加や高い失業率に不満をもつ労働者階級などから強い支持を集めた。2002年に大統領選挙に立候補し,第1回投票で現職首相のリオネル・ジョスパン候補を破って 2位につけたが,決選投票ではジャック・シラクに敗れた。2007年にも大統領選挙に出馬したが,決選投票にはいたらなかった。2010年,FN党首から身を引くことを表明,三女のマリーヌ・ルペンがあとを継いだ。マリーヌが党勢拡大をはかるなか,ホロコーストを「歴史の些事」と呼ぶなどの発言を繰り返し,これを問題視した FNは 2015年にルペンの党員資格を停止し,その後除名処分をくだした。1984~2003年,2004~19年ヨーロッパ議会議員。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルペン」の意味・わかりやすい解説

ルペン
るぺん
Marine Le Pen
(1968― )

フランスの政治家。正式な名前はマリオン・アンヌ・ペリーヌ・ルペンMarion Anne Perrine Le Pen。極右政治家で国民戦線(FN)の初代党首であったジャン・マリ・ルペンJean-Marie Le Pen(1928―2025)とその最初の妻の間の三女として生まれる。18歳でFN党員となり、政治活動を始めた後、パリ第二大学で法学を修め、1992年に弁護士資格を獲得。1993年の下院選挙に初出馬するも落選。FNの司法部門の責任者を務めつつ、1998年に北部のノール・パ・ド・カレー地域圏議会議員に当選して政治家人生を歩み始めた。なお、マリーヌ自身、FN党幹部と2回の結婚と離婚を経験しており、3人の子どもの母親でもある。

 2002年の大統領選で父ジャン・マリが決選投票に進出した際、テレビの討論番組に出演し、全国的に名が知られるようになった。それ以降、清新なイメージと歯切れのよい弁舌でメディア露出が増えていった。同年から国政進出を試みるものの2007年、2012年と2回の下院選で落選。2004年のヨーロッパ議会(欧州議会)選挙が最初の当選となる。

 2011年にFNの代表に選ばれ、それまでの極右政党としてのイメージを脱してソフト路線を歩むようになってから、マリーヌへの有権者からの支持は急速に拡大していった。父親のような人種差別主義や親ファシズム路線を封印して、反グローバリズムや反EU(ヨーロッパ連合)を旗印に掲げ、同党は選挙でも着実に地歩を固めていった。2012年の大統領選でマリーヌ・ルペンは保革二大政党の候補者に次いで17.9%の票を獲得。さらに2014年の欧州議会選では、FNが24.9%の得票をもって第一党となり、翌2015年の地方選でも第1回投票でFNは得票率では首位となった。

 2017年の大統領選では、マリーヌがそれまで支持率のトップを走っていたことから決戦投票への進出が確実視されていたが、決戦投票では保革の既成政党から中道までの票を集めた独立系候補エマニュエル・マクロンに敗北した。もっとも、直後の下院選で初めて国会議員となり、FNは彼女を含めて下院で8議席を有する勢力となった。それでも期待されたほどの得票に結び付かなかったことでFNは内紛にみまわれたが、依然として既成政党に対する不信の強いフランスで、マリーヌと彼女率いるFNが躍進する余地は今後も残っている。

[吉田 徹 2018年7月20日]

『マリーヌ・ルペン著『自由なフランスを取りもどす』(2017・花伝社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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