日本大百科全書(ニッポニカ) 「ル・ベル」の意味・わかりやすい解説
ル・ベル
るべる
Joseph Achille Le Bel
(1847―1930)
フランスの化学者。アルザス、ペケルブローンに生まれる。ファント・ホッフと並び、独立に、立体化学の建設に果たした役割で知られる。1865年から1867年理工科大学校(エコール・ポリテクニク)に学び、ついでコレージュ・ド・フランス医学校でバラールに学んだ。その後、エコール・ド・メディシンのウュルツのもとで有機化学の指導を受けて研究を進めた。その間、ファント・ホッフがオランダから留学してウュルツのもとにきており、半年間机を並べて研究していた。2人はのちの1874年、同じ年に、それぞれ独立に立体化学の論文を発表することになる。彼らの間でこの問題について討論されるということはなかったようである。
分子の幾何学的構造性の把握への第一歩はすでに1848年パスツールによって与えられていた。彼は酒石酸ナトリウム、アンモニウム複塩についての観察から、原子配列の不斉が結晶形では重ね合わせのできない半面像として現れ、分子の不斉が光学的活性の原因であることをとらえていた。これから、ファント・ホッフ、ル・ベルらの仕事はただちに出てくるように思われる。しかし、パスツールの1848年の論文は、ケクレが炭素原子価の四価性をとらえる約10年前であり、ケクレのベンゼン六員環構造の提起が1865年であることを考えると、当時の化学者が化学構造の意義を的確にとらえておらず、そのためにパスツールの仕事からル・ベルらの論文に至るのに約4分の1世紀を要したと考えられる。ようやく1873年にウィスリツェヌスが光学異性の問題から分子の立体的構造の必然性について示唆し、それを具体化する仕事が、2人の若い化学者ル・ベル(27歳)、ファント・ホッフ(22歳)によってなされたのである。ル・ベルは、主としてパスツールの分子不斉の観念を構造化学的にくみ取り、分子の立体構造理論を確立した。ファント・ホッフのほうが2か月ばかり早いが、立体化学建設の功績は2人に帰せられる。
[荒川 泓]
『田中実著『近代化学史――化学理論の形成』(1954・中教出版)』