分子内の原子または多原子イオンの相対的位置関係を三次元的に考え,おもに立体異性に関する諸問題を研究する化学の一分野。分子構造を三次元的に考える必要性はL.パスツールの酒石酸塩の結晶に関する研究(1848)によって明らかにされたが,化学構造の理解が不十分であったため,研究は発展しなかった。1874年J.H.ファント・ホフとJ.A.ル・ベルが炭素正四面体説を提案し,パスツールの発見を理論的に説明するのに成功した。とくにファント・ホフはみずからの理論を《空間における化学La chimie dans l'espace》という論文にまとめることによって,分子構造を三次元的にとらえることの必要性を強調した。炭素正四面体説および二重結晶をもつ化合物における幾何異性の考え方は,折しも急速に発展しつつあった有機化学にとって強力な武器となった。88年V.マイヤーは立体化学,立体異性といった基本用語を提案し,ここに立体化学が確立した。90年までにハンチArthur Rudolf Hantzsch(1857-1935)やA.ウェルナーは立体化学を無機化学の領域に持ち込んだ。初期に研究され,成果のあったのは立体配置の問題であったが,単結合のまわりの回転による立体異性の可能性はすでにファント・ホフの時代にも認識されていた。シクロヘキサン環の構造に関する論争を通じて,単結合のまわりの回転による立体異性として,シクロヘキサンにおけるいす形,舟形が認識され,ハースは立体配座なる用語を確立した。なお,エタン誘導体における回転異性は,1934年水島三一郎らによって実験的に証明された。
化学反応における立体化学の重要性はすでに19世紀末,P.ワルデンのワルデン反転の発見によって認められていたが,その意義は1920年代になって主としてインゴルドChristopher Kelk Ingold(1893-1970)に代表されるイギリス学派によって明らかにされた。立体化学の進歩は20世紀後半の機器分析の発展によってとくに加速された。1951年バイフートJ.M.BijvoetがX線異状散乱を用いて酒石酸塩の絶対立体配置を決定し,また赤外(IR),核磁気共鳴(NMR)スペクトルなども立体化学の決定に利用されるようになった。
これに対応して,合成においても可能な立体異性体のうち必要なものを合成することが大きな課題となってきた。立体特異的ないし立体選択的に反応を進行させることは,とくに20世紀後半の有機合成化学の中心的課題となった。とくに生体関連物質の構造や生合成機構,あるいは一般に生体内反応機構が理解されてくるにつれて,in vivoの現象をin vitroに実現するためのくふうとして重要性が認識されたためである。今日では光学収率が100%に近いような不斉合成,すなわちエナンチオマーの一方を合成する反応も数多く開発されている。
一方,三次元的広がりをもっていない分子はなく,したがって立体化学的側面をもたない化学はないから,立体化学という分野をたてることには意味がない,という主張もある。しかし歴史的にみても教育的見地からみても,立体化学的側面を強調した化学の存在価値は高く,今後とも化学の一分野としてみなされつづけるものと予想される。
執筆者:竹内 敬人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
分子内の原子や原子団の空間的配置を研究する化学の一分野。立体異性の問題、あるいは原子や原子団の空間的配列と化合物や化学種の反応性、物理的性質などとの関連が研究の対象となる。
有機化合物については、フランスのパスツールによる酒石酸の異性体の発見(1848)がその端緒である。これからやがて炭素原子の四面体説(ファント・ホッフ、ル・ベル)、不斉炭素原子概念の導入によって基礎ができ、ドイツのH・フィッシャーによる糖類の構造など環式化合物の立体構造、立体配置、立体配座などが広く研究されてきた。
無機化合物に関しては、ドイツのハンチArthur Hantzsch(1857―1935)やウェルナーによって錯イオンを中心として基礎が築かれた。種々の配位構造に基づいた異性現象の研究が蓄積されてきた。
有機化学、無機化学の両分野ともに、分子構造を物理化学的方法によって精密に解析することが可能となってから立体化学の研究は急速に発展し、X線による絶対構造の決定のほか、赤外・ラマンスペクトル・紫外・可視の吸収スペクトルや旋光分散、核磁気共鳴などが利用されるようになった。逆にこれらの手法によって、いままで単純と思われていたものが案外に複雑な立体構造のものと判明したものも少なくない。水島三一郎、森野米三による回転異性体の発見などもその一例である。
ポリプロピレンなどの立体規則性の研究も立体規制合成法も、立体化学の基礎なくしてはありえなかったのである。研究手法の増加によりますます対象の広がりつつある分野といえよう。
[山崎 昶]
『竹内敬人著『立体化学入門』(1980・講談社)』
化合物の三次元構造とその性質との関係を研究する化学の分野.主として立体異性体の立体構造とそれらの物質的化学的性質が取り扱われ,化学反応の結果から演繹(えき)的に結論されてきたが,20世紀における量子化学や物理的測定法の進歩により,直接的に実証されるようになった.それに貢献した諸法は,X線回折やX線結晶学,中性子線や電子線の回折を利用した構造解析,振動回転スペクトル,ラマンスペクトル,双極子モーメントの測定による微細構造の解明などである.現在では上記の諸法に加え,電子スペクトル,旋光分散,円偏光二色性,核磁気共鳴などが加わり,反応経路における立体配置の変化なども明らかにされており,立体化学の成果をもとに有機化学者は複雑な化合物の選択的合成や生体反応の機構解明に挑戦している.今後の発展が期待されている化学分野である.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…チューリヒ工科大学,ゲッティンゲン大学,ハイデルベルク大学の教授を歴任。気体分子量測定法として有名な〈ビクトル・マイヤー法〉の考案(1878),オキシム生成の反応(1882),チオフェンの発見(1883),〈立体化学stereochemistry〉という用語の提唱(1888),オルトに置換基を有する安息香酸がエステル化しにくいことを発見して〈立体障害〉と呼ぶなど(1894),化学の発展に大きな影響を及ぼしたが,病弱のため自殺した。【岩田 敦子】。…
…チューリヒ工科大学,ゲッティンゲン大学,ハイデルベルク大学の教授を歴任。気体分子量測定法として有名な〈ビクトル・マイヤー法〉の考案(1878),オキシム生成の反応(1882),チオフェンの発見(1883),〈立体化学stereochemistry〉という用語の提唱(1888),オルトに置換基を有する安息香酸がエステル化しにくいことを発見して〈立体障害〉と呼ぶなど(1894),化学の発展に大きな影響を及ぼしたが,病弱のため自殺した。【岩田 敦子】。…
※「立体化学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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