フランスの代表的高級紙。パリ発行の夕刊紙。パリ解放後の1944年12月18日、レジスタンスに参加した法学者ユベール・ブーブメリHubert Beuve-Méry(1902―1989)が、第二次世界大戦前の有力紙『ル・タンLe Temp』の編集陣を引き継いで創刊。あらゆる権力からの独立を旗印に、フランスのNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)加盟、インドシナ戦争、アルジェリア戦争反対の論陣を張った。これを嫌う政界と重役会の圧力で社長ブーブメリは1951年退陣に追い込まれたが、記者会と読者の支援組織の闘いで同社長の復帰をかちとるとともに、記者会が40%の株式を支配する持株組織となり、外部からの圧力に抗する『ル・モンド』の独立性を強めた。しかし1980年代以降、テレビ、ラジオやインターネットの普及と並行した新聞不況のなかで厳しい財政困難に陥り、記者会の持株組織も機能しなくなった。2010年6月、高級ファッションブランドのイブ・サン・ローラン創立者であるピエール・ベルジェPierre Bergé(1930―2017)ら社会党系の実業家3人のグループ「トリオ」が、大統領サルコジの推す保守系グループとの株式買収合戦を展開。同社の最高意思決定機関である監査委員会の投票によって「トリオ」の買収が成功した。この結果、同紙の左派ないし中道左派系の論調は維持されることになった。題号Le Monde(世界の意)の名に恥じず国際問題に大きな紙面を割く編集方針に定評があり、世界の政治家や外交専門家に影響力をもつ。2017年の発行部数は約30万部。
[伊藤力司]
現代フランスの代表的な高級夕刊新聞。1944年12月18日(日付は19日)対ドイツ協力紙《ル・タンLe Temps》の後継紙として,社屋なども引き継いで創刊された。創刊の中心人物は,1934年から《ル・タン》のプラハ特派員をしていたブーブ・メリーHubert Beuve-Méry(1902-89)だった。彼を責任者に選んだのはド・ゴールで,その意図は御用新聞づくりだった。しかし〈言論の自由〉を信条とするブーブ・メリーは,むしろ第四共和政批判の立場に立った。と同時に紙面の質を高めるため,国際ニュースを多く扱い,単なる情報でなく分析や解説を重視し,ニュース写真は使わないなどを編集方針とした。51年春から重役会内での対立が深まり,ブーブ・メリーは7月にいったん社長を辞任したが,彼を支持する記者会の結束で,9月には社長に復帰した。この混乱の経験をもとに慎重な討論がつづけられて,68年3月の協約では記者会が《ル・モンド》の株の40%を所有することになり,人事や編集方針に対する記者の発言権が強化された(これを〈内部的自由〉の確立といい,西ドイツやフランスではそのための運動が活発となっている)。69年ブーブ・メリーは老齢を理由に引退した。ちょうどそのころから《ル・モンド》の(また一部を除くパリ新聞界全体の)経営状況が悪化し,部数も最盛時(約60万部)の半分近くまで落ち込み,負債はかさみ,経営改善の苦闘が今もつづいている。90年代半ばの時点で,年間発行部数は平均して約35万部。
執筆者:稲葉 三千男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
「モンド」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…40年のナチス占領後は,ビシー政府支配下のリヨンに移って続刊したが,42年11月末,検閲局から愛国的記事の掲載禁止措置を受けたので,抗議の意思表示としてみずから廃刊の道を選んだ。現在の《ル・モンド》は,《タン》の設備を用いて創刊され,国際記事に強い伝統も受け継いでいる。【稲葉 三千男】。…
※「ルモンド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加