イギリスのアッシリア学者。17歳で士官候補生として東インド会社に入りインドに赴任。6年後少佐となってイランに転任した。軍務のかたわら古代ペルシアに対する興味を深めていた彼は,1837,44,47年の3回にわたってビストゥンの断崖に刻まれた,未解読のダレイオス1世(大王)の3ヵ国語の碑文を危険を冒して正確に写しとり,古代ペルシア語部分の翻字,翻訳,注解を《王立アジア協会雑誌》に発表(1846以降),グローテフェントの解読を数歩進めてペルシア語文献理解の道に踏み入り,またアッカド語部分の解読にも一部成功した(1850)。また57年,アッシリアのティグラトピレセル1世の長文の年代記の翻訳を特別委員会の要請によって,E.ヒンクス,J.オッペール,W.H.F.タルボットとともに提出したところ,それらが驚くべき一致をみたことから,複雑なアッカド語音節楔形文字の解読の正しさが認められ,アッシリア学の基礎が確立された。その後も研究,収集,発掘を進め,その主要成果を《西アジアの楔形文字刻文》全5巻(1861-84)にまとめた。これにはその後のアッシリア学発展のための重要資料が多く含まれており,その功績によって〈アッシリア学の父〉と呼ばれる。
その間,バグダードのイギリス総領事,東インド会社役員,インド評議会の最初の評議員,ペルシア全権公使,下院議員を歴任,学界では王立アジア協会の理事,同会長,大英博物館評議員,王立地理学会会長を務め,それらの功により,バス勲爵士,準男爵に叙せられた。彼は性格や経歴の点ではビクトリア朝後期の紳士の典型であり,未知の言語の解読者としては大胆で直覚的な把握において無比の人物と評せられた。
執筆者:山本 茂
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イギリスのオリエント学者、外交官、政治家。オックスフォードシャーで生まれる。16歳で東インド会社に入り、インド、ペルシア、トルコで軍人、政治家として過ごしつつ東方諸語や歴史を学び、とりわけ古代ペルシア刻文に興味をもった。イランのビストゥン(ベヒスタン)にある古代ペルシア王ダリウス1世の3か国語岩壁刻文を二度にわたり危険を侵して写し取り、これを研究し、まず古代ペルシア楔形(くさびがた)文字をほぼ正しく解読した。ついでシュメール・アッカド楔形文字、およびこれで記されたバビロニア語を研究し、かなりの成果をあげた(ともに1850年前後)。1857年にはこの文字の解読コンテストが行われ、解読が一般に認められた。ビストゥン刻文研究は1846年に刊行されたが、1861~1884年に公にされた『西アジア楔形文字刻文』5巻は記念碑的労作となった。1858年以降、国会議員、駐ペルシア大使、インド帝国政府高官を歴任した。
[矢島文夫 2018年8月21日]
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1810~95
イギリスの東洋学者。楔形文字解読の功労者。軍人,外交官としてインド,中東に活躍。有名なダレイオス1世のベヒストゥーン碑文を解読し,多くの楔形文字テキストを公刊,「アッシリア学の父」と呼ばれる。
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…発見された2万2000個の粘土板は大英博物館に移管され逐次刊行されてきている。 1846年にビストゥンやペルセポリスの3ヵ国語碑文のうち古代ペルシア語碑文(第1種碑文)がローリンソンによって解読されると学者の目は次いでバビロニア語碑文(第3種碑文)に向けられた。この碑文は文字数の多いことからまず音節文字であることが予測され,多くの状況証拠はこの言語がセム系言語であることを示唆していた。…
※「ローリンソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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