ワルトハイム

百科事典マイペディア 「ワルトハイム」の意味・わかりやすい解説

ワルトハイム

オーストリア外交官・政治家。バルトハイムとも。ウィーン生れ。ウィーン大学卒業。外務省に入り,カナダ駐在大使国際連合国連)代表,外相などを経て,1972年から1981年まで第4代国連事務総長を務めた。1986年には二度目の挑戦でオーストリア大統領選挙当選,1992年までその職を務めた。しかし,オーストリアには第2次世界大戦前にドイツに併合されたという歴史があり,ワルトハイム自身についてナチスを支援する国家社会主義学生同盟およびナチス突撃隊に所属していたという経歴判明戦争犯罪には無関係であったとされているが,一国の大統領であるにもかかわらず,旧連合国を中心とした多くの国々で〈ペルソナ・ノン・グラータ〉(〈好ましからざる人物〉を意味する)に指定された。こうした批判にさらされ,1992年の大統領選への立候補を断念したとされる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ワルトハイム」の意味・わかりやすい解説

ワルトハイム
Waldheim, Kurt

[生]1918.12.21. ザンクトアンドレウェルデルン
[没]2007.6.14. ウィーン
オーストリアの外交官,政治家。ウィーン大学卒業,法学博士。 1945~55年外務省勤務。 1955年初代国際連合代表,1956~58年カナダ公使,1958~60年同大使。 1964~68年国連大使,1968~70年外務大臣,1970年国連大使再任。 1971年国民党から大統領選挙に立候補したがフランツ・ヨナスに敗れた。 1972年第4代国連事務総長就任,1977年再選。事務総長在任中,キプロス紛争,南北イエメン問題,中東問題などに取り組み,1981年に辞任。 1986年国民党から大統領選挙に再出馬したが,第2次世界大戦中の 1942~45年にナチス・ドイツの情報将校としてユーゴスラビアのパルチザン弾圧やユダヤ人の強制収容所への移送に関与した疑いが表面化。しかしこれらの疑惑を否定,大統領選挙に勝利した。のちにナチス関与が明らかにされ,国際社会で孤立,1992年大統領再選を断念した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワルトハイム」の意味・わかりやすい解説

ワルトハイム
わるとはいむ
Kurt Waldheim
(1918―2007)

オーストリアの政治家。1955年初代国連代表。のちカナダ大使、国連大使を経て1968~1970年外相。1971年第4代国連事務総長に選出された。1976年再選後、1981年の3選立候補は中国の拒否権行使にあい実現しなかった。1986年オーストリア大統領選挙に推されたが、選挙期間中、第二次世界大戦でドイツ国防軍将校としてユーゴスラビアのパルチザン弾圧に加わったと報道され、内外に話題をまいた。1988年国際歴史家委員会が「ナチ犯罪に直接関わった証拠はないが、残虐行為について十分知りうる立場にあった」との報告をオーストリア政府に提出、本人も1991年6月、「次期大統領選に出馬せず」と政界引退を表明事件は真相不明のまま鎮静化した。

[藤村瞬一 2018年8月21日]

『ロバート・E・ハーズスタイン著、佐藤信行・大塚寿一訳『ワルトハイム――消えたファイル』(1989・共同通信社)』

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旺文社世界史事典 三訂版 「ワルトハイム」の解説

ワルトハイム
Kurt Waldheim

1918〜  
オーストリアの外交官・政治家
ウィーン大学卒。1955年オーストリアの国際連合加盟と同時に初代代表となる。大使・外相を歴任し,1972年ウ=タントのあとをうけて第4代国連事務総長に就任。その後,1986年オーストリア大統領に就任したが,第二次世界大戦時の「ナチ疑惑」が問題化し,92年退任。

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