日本歴史地名大系 「三俣院」の解説
三俣院
みまたいん
- 宮崎県:北諸県郡
- 三俣院
〔鎌倉―室町時代〕
建久図田帳に島津庄の一円庄の一つとして諸県郡内の「三俣院七百丁」がみえ、地頭は島津忠久であった。なお室町期の書写と思われる建久図田帳(長谷場文書)には、三俣院七〇〇町のほかに島津庄日向方本庄分田数のうちに「三俣院千町」が記される。日向の在庁官人系国人の土持氏の系譜(年未詳「垂水新兵衛系図写」予章館文書)には、貞応四年(嘉禄元年、一二二五)源頼朝が土持栄妙に
北条氏滅亡後の建武年間(一三三四―三八)、三俣院では高城(現高城町)などに南朝方の肝付兼重が拠点を構えた。これに対し、建武三年四月に那賀(日下部)盛連は三俣院を攻め(同年五月一六日「日下部盛連軍忠状」郡司文書)、同年一二月五日には、三俣院の在地領主福王寺真重らとともに大隅の禰寝氏や島津庄
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報