三原城跡(読み)みはらじようあと

日本歴史地名大系 「三原城跡」の解説

三原城跡
みはらじようあと

小早川隆景が三原湾に浮ぶおお島・島をつないで築城した海城。うき城・玉壺たまつぼ城ともいう。国指定史跡。東西約一・一キロ・南北約七二〇メートル。小早川家系図に永禄一〇年(一五六七)二月三原城を築くとある。天文二二年(一五五三)三月一五日付で毛利隆元から隆景のもとに三原要害在番として八幡原元直が遣わされており(「閥閲録」所収志賀茂右衛門家文書)、この三原要害が三原城築城の土台となった。

近世以前における三原城の規模は明らかでないが、隆景によって修増築が行われ、慶長元年(一五九六)にいちおう完成したとみられる。天正五年(一五七七)石山合戦に備えて隆景が笠岡かさおか(現岡山県笠岡市)に在陣したとき、三原城は毛利輝元の本営となり、次いで織田方との全面戦争に突入すると、同八年七月、毛利氏の宿老粟屋元通が在番して、城の切搦などを堅固に造るなど修築を行っている(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)。天正九年末からの輝元の在陣を契機に再び修築が進められ、隆景の家臣礒兼景道、輝元から遣わされた妙寿寺周泉により、木梨衆に夫役を負担させて行われた(同書所収礒兼求馬家文書)。同年六月四日の高松たかまつ(現岡山県岡山市)攻めの講和のあと帰城した隆景は、六月二〇日から諸村の者を動員して昼夜兼行で堀普請をすすめ(同文書)翌年にかけて城下町を建設し(同書所収飯田平右衛門家文書)、この頃城下周辺の山麓に沼田ぬた地方(現豊田郡本郷町一帯)から多くの寺院を移した。

三原城跡
みはらじようあと

[現在地名]大刀洗町本郷

小石原こいしわら川右岸で北部から続いた低丘陵地の山隈原やまぐまばると南に広がる平地の接点近くに築かれた中世の平城。三原氏代々の居城で、本郷ほんごう城ともいう。三原氏は筑前の原田氏や筑後の高橋氏などと同様に大宰府府官大蔵氏の一族で、平安末期には平氏の被官、鎌倉期には御家人となり、建長五年(一二五三)に中国人貿易商謝国明の遺領であると称して宗像氏業と小呂おろ(現福岡市西区)を争い(同年五月三日「六波羅書下」宗像大社文書/宗像大社文書一)、弘安八年(一二八五)の岩門合戦で勲功をあげた(同九年閏一二月「蒙古合戦并岩門合戦勲功地配分注文」比志島文書/鎌倉遺文二一)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「三原城跡」の解説

みはらじょうあと【三原城跡】


小早川氏城跡(こばやかわししろあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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