日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊藤博文内閣」の意味・わかりやすい解説
伊藤博文内閣
いとうひろぶみないかく
明治時代の伊藤博文を総理大臣として組織された内閣で、第一次から第四次にわたる。
第一次
(1885.12.22~1888.4.30 明治18~21)
1885年12月、明治初年以来の太政官制(だじょうかんせい)が廃止され、新しく内閣制度が創設されて成立した最初の内閣である。閣僚の構成は、伊藤首相をはじめとする長州藩出身の閣僚4人と薩摩藩(さつまはん)出身の蔵相松方正義(まつかたまさよし)以下の4人という薩長藩閥政府としての均衡人事のうえに、土佐藩出身の谷干城(たにかんじょう)を農商務相に、旧幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)を逓相(ていしょう)に加えて成立した。翌年2月、公文式、各省官制通則、各省大臣職権などを制定し、内閣制の発足に伴う法制の整備を進めた。さらに同年には、文相森有礼(もりありのり)の下で帝国大学令以下の学校令が制定され、第二次世界大戦前における教育制度の原型を確立した。また、陸軍のプロシア式軍制への編制替えや海軍の兵制改革も推進した。その間に外相井上馨(いのうえかおる)の手で進められていた条約改正交渉の内容がわが国にとって不利であるとの批判が、まず政府部内からおこり、相次いで旧自由民権派の反対運動を呼び起こし、さらに谷農商務相が反対意見を提出して辞任するという事態を招いた。1887年7月に条約改正交渉の無期延期を各国に通告し、9月井上外相も辞任を余儀なくされた。しかし、反政府運動は三大事件建白運動としてさらに広がることになったため、12月ついに保安条例を発布してこれを弾圧した。翌1888年4月伊藤首相が、憲法草案などの審議のため新設された枢密院の議長に転じて第一次内閣は終わった。
[宇野俊一]
第二次
(1892.8.8~1896.9.18 明治25~29)
1892年8月、松方正義内閣総辞職の後を受け、民党勢力に対抗するため元勲を網羅した内閣として組織された。法相に山県有朋(やまがたありとも)、逓相に黒田清隆(くろだきよたか)、内相に井上馨、陸相に大山巌(おおやまいわお)を入閣させ、藩閥政治家中の実力者である元勲層を網羅することで強力内閣を目ざした。そのほかに外相には陸奥宗光(むつむねみつ)、蔵相に渡辺国武(わたなべくにたけ)らの有能な伊藤系官僚を抜擢(ばってき)した。翌年の第4議会では、第2議会に提出されて以後、衆議院の反対で成立しなかった懸案の軍艦製造費を天皇の詔勅によって実現し、さらにイギリスとの間で条約改正交渉を開始した。しかしこの改正交渉に批判的な野党が対外硬六派を結成して政府を攻撃したため、第5議会で衆議院を解散し、さらに1894年総選挙後の第6議会でも再度解散を命じた。そして7月には日英通商航海条約を調印し、懸案の条約改正にいちおうの成功を収めた。この間に、朝鮮において勢力を拡大してきた東学党(とうがくとう)の乱から日本公使館ならびに居留民を守るという名目で出兵し、京城周辺で清国(しんこく)軍と対峙(たいじ)した。8月宣戦を布告して日清戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、朝鮮北部から遼東(りょうとう)半島までを制圧し、翌年4月、日清講和条約を締結、台湾・遼東半島などの領地、莫大(ばくだい)な償金、清国における通商特権などを獲得した。しかしその直後に三国干渉があり、遼東半島の還付を余儀なくされた。1895年末からの第9議会では自由党と提携して野党からの外交についての責任追及をかわして、軍拡を中心とする戦後経営実現のための巨額の予算案と関係法案を成立させた。議会後、自由党総理板垣退助を内相として入閣させたが、伊藤首相の挙国一致構想による大隈重信(おおくましげのぶ)らの入閣問題で板垣が反対し、閣内不統一のため1896年8月総辞職した。
[宇野俊一]
第三次
(1898.1.12~1898.6.30 明治31)
1898年1月、第二次松方内閣の後を継いで伊藤系官僚ら第二世代の藩閥官僚を中心に組閣された。自由・進歩両党との提携交渉に失敗し超然内閣として出発したが、その後農商務相伊東巳代治(いとうみよじ)の努力で自由党との提携に成功。しかし総選挙後の4月、党首板垣退助の入閣交渉が実現しなかったため、自由党は政府との提携を断絶した。5月からの第12議会に政府は日清戦後経営の財源を安定させるため地租増徴法案を提出したが、衆議院で自由・進歩両党を中心に圧倒的多数で否決され、これを解散した。その後、両党は合同して憲政党を結成したため、政局打開の方策として伊藤首相自ら政府党結成に乗り出すが、一部閣僚や元老山県有朋らの強い反対で挫折(ざせつ)し、6月総辞職した。
[宇野俊一]
第四次
(1900.10.19~1901.6.2 明治33~34)
1900年10月、第二次山県内閣の後を受けて成立。前月伊藤自ら総裁となった立憲政友会を基礎に、陸・海軍大臣と外務大臣を除く全閣僚を政友会幹部から選任して組織された。しかし、組閣段階で渡辺国武の蔵相就任をめぐる紛糾があり、さらに逓相星亨(ほしとおる)が東京市会汚職事件で辞任に追い込まれるなど、波瀾(はらん)含みで出発した。翌1901年(明治34)に入って、政府が第15議会に提出した増税法案に対して貴族院が激しく反対し、3月、天皇の詔勅によって切り抜けた。さらに4月に入ると明治34年度、35年度の予算問題をめぐって閣内が対立し、ついに5月総辞職した。
第一次内閣は日本初の内閣で、動脈硬化に陥っていた太政官制にかわる政府組織として期待されたが、閣僚構成は藩閥勢力内部の勢力均衡を前提として組織され、依然として内閣の一体性に欠けるところがあった。さらに議会開会以降の第二次内閣では当初元勲内閣で民党側に対抗しようとするが、自由党との提携に踏み切り、従来の超然主義的政治姿勢からの転換を図った。しかし、第三次内閣では政党との提携に失敗し地租増徴問題で総辞職を余儀なくされ、第四次内閣では貴族院側の反対にあって苦境にたたされることになった。その間伊藤首相は政治運営のうえで天皇の詔勅に頼ることが多く、また衆議院の解散もたび重なった。対外政策の面では、条約改正にいちおう成功し、日清戦争を遂行することになったが、三国干渉に直面して、日清戦争の主要課題であった朝鮮支配を実現することはできなかった。また、日清戦後急迫化した東アジア情勢に対処するため政党をも含む挙国一致の内閣構想はかならずしも成功せず、内外ともに帝国主義開幕期の困難な局面に直面し、有効な政治指導を発揮することはできなかった。
[宇野俊一]
『大久保利謙編『体系日本史叢書 政治史Ⅲ』(1967・山川出版社)』▽『林茂・辻清明編『日本内閣史録1』(1981・第一法規出版)』▽『坂本一登著『伊藤博文と明治国家形成――「宮中」の制度化と立憲制の導入』(1991・吉川弘文館)』