ムラビヨフ(読み)むらびよふ(英語表記)Николай Николаевич Муравьёв‐Амурский/Nikolay Nikolaevich Murav'yov-Amurskiy

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムラビヨフ」の意味・わかりやすい解説

ムラビヨフ
Murav'ëv, Nikita Mikhailovich

[生]1796.7.30. モスクワ
[没]1843.5.10. イルクーツク,ウリコフスカヤ
ロシア軍人,近衛大尉,デカブリスト。 1813~14年ヨーロッパにおける対ナポレオン戦に参加。 16年デカブリストの最初の秘密結社救済同盟」の設立者の一人となり,21年「北方結社」のメンバーとなった。 22~25年未来のロシアの憲法草案 (N.ムラビヨフの憲法) を起草立憲君主制を意図した。デカブリストの蜂起のとき首都に不在で参加しなかったが,捕えられてシベリア流刑となり,この地で没した。

ムラビヨフ
Murav'ëv, Mikhail Nikolaevich

[生]1845.4.19. ペテルブルグ
[没]1900.6.21. ペテルブルグ
ロシアの外交官,政治家。伯爵。ロシアの極東政策を推進し,日露戦争勃発を招いた。 1864年外務省に入り,97年外相。満州 (現中国東北地方) への進出のためには遼東半島の旅順と大連の制圧が先決としてこれを奪取する政策を実施。 98年中国と協定結び,旅順-ハルビン,ハルビン-ウラジオストク間の鉄道を敷設。イギリスとは互いに勢力範囲を設定して事なきを得たが,ロシアの朝鮮半島に対する脅威を恐れた日本とは関係が悪化,日露戦争を招来した。

ムラビヨフ
Murav'ëv, Nikolai Nikolaevich

[生]1809.8.23. ペテルブルグ
[没]1881.11.30. パリ
ロシアの軍人,将軍。伯爵。 1847~61年イルクーツク,エニセイ県知事,東シベリア総督。 54~55年アムール川遠征隊を指揮し,58年中国との間に愛琿条約を結んだ。この功績によりアムールスキー伯の称号を受けた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムラビヨフ」の意味・わかりやすい解説

ムラビヨフ(Nikita Mihaylovich Murav'yov)
むらびよふ
Никита Михайлович Муравьёв/Nikita Mihaylovich Murav'yov
(1796―1843)

ロシアの軍人、デカブリスト(十二月党員)の1人。名門貴族の家に生まれる。モスクワ大学卒業後、1813年から軍務に服した。16年デカブリストの最初の秘密結社「救済同盟」の設立に参加し、「福祉同盟」のメンバーを経て、21年に創設された「北方結社」の指導者の1人となる。彼は比較的穏健な自由主義的立場から、将来のロシアの憲法草案をつくり、立憲君主制を志向したが、ルイレーエフら急進的な同志に反対された。12月14日の蜂起(ほうき)の際には首都ペテルブルグにおらず参加しなかったが、のち逮捕されてシベリア徒刑となり、イルクーツク県で死去した。

[外川継男]


ムラビヨフ(Nikolay Nikolaevich Murav'yov-Amurskiy)
むらびよふ
Николай Николаевич Муравьёв‐Амурский/Nikolay Nikolaevich Murav'yov-Amurskiy
(1809―1881)

ロシアの軍人、政治家。陸軍幼年学校を卒業後、1846年トゥーラ県の軍事総督兼知事となった。自由主義的思想の持ち主で、早くから農奴解放の必要を説いた。47~61年東シベリア総督として、シベリアの開拓に努力する一方、ネベリスコイのタタール海峡とアムール川河口の調査も指揮した。58年に清(しん)国との間にアイグン(愛琿)条約を締結し、その功績からアムールスキー伯の称号を授けられた。59年(安政6)七隻の軍艦を率いて来日、幕府に樺太(からふと)(サハリン)全島がロシア領であることを認めさせようとしたが不成功に終わった。

[外川継男]

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