ロシアの貴族出身のデカブリスト。モスクワ大学に学んだあと,1813年からナポレオン戦争に参加した。16年デカブリストの最初の秘密結社である〈救済同盟〉の設立に参加,のち,それに代わる〈北方結社〉の有力なメンバーとなり,将来のロシアの憲法ともいうべき〈ムラビヨフの憲法Konstitutsiya N. Murav'yova〉の草案を作成した。これは立憲君主制,農奴解放,法の前での万人の平等,言論・出版・信教の自由などをうたったものであった。25年12月14日のデカブリストの蜂起の当日は地方に行っていて蜂起には参加しなかった。蜂起失敗後の裁判により,最初死刑の判決を受けたが,20年の苦役に変更された。35年までネルチンスクの鉱山で苦役,その後イルクーツク県へ流刑となり,そこで死んだ。
執筆者:外川 継男
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ロシアの軍人、デカブリスト(十二月党員)の1人。名門貴族の家に生まれる。モスクワ大学卒業後、1813年から軍務に服した。16年デカブリストの最初の秘密結社「救済同盟」の設立に参加し、「福祉同盟」のメンバーを経て、21年に創設された「北方結社」の指導者の1人となる。彼は比較的穏健な自由主義的立場から、将来のロシアの憲法草案をつくり、立憲君主制を志向したが、ルイレーエフら急進的な同志に反対された。12月14日の蜂起(ほうき)の際には首都ペテルブルグにおらず参加しなかったが、のち逮捕されてシベリア徒刑となり、イルクーツク県で死去した。
[外川継男]
ロシアの軍人、政治家。陸軍幼年学校を卒業後、1846年トゥーラ県の軍事総督兼知事となった。自由主義的思想の持ち主で、早くから農奴解放の必要を説いた。47~61年東シベリア総督として、シベリアの開拓に努力する一方、ネベリスコイのタタール海峡とアムール川河口の調査も指揮した。58年に清(しん)国との間にアイグン(愛琿)条約を締結し、その功績からアムールスキー伯の称号を授けられた。59年(安政6)七隻の軍艦を率いて来日、幕府に樺太(からふと)(サハリン)全島がロシア領であることを認めさせようとしたが不成功に終わった。
[外川継男]
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