明治から昭和にわたる国家主義運動の指導者。福岡県に生まれ,叔父である玄洋社社長平岡浩太郎らの影響をうけ,青年時代から朝鮮,中国への日本の勢力拡大に強い関心をもった。1901年黒竜会を結成,03年対露同志会に参加,ロシアとの開戦を主張,日露戦争後は韓国の日韓合邦推進団体である一進会とともに,日韓併合実現に奔走した。辛亥革命に当たっては,宮崎滔天らと有隣会を組織したが,すぐ満蒙独立構想を主張,大正デモクラシー運動高揚期には白虹事件(1918)をはじめ,デモクラシー運動の排撃につとめた。宮中某重大事件では山県有朋に対抗し,普通選挙法案には家長普選論で加藤高明に対抗し,25年には加藤首相暗殺教唆で拘引された(無罪)。31年大日本生産党を結成し,その総裁となってファシズム運動の先頭に立ち,神兵隊事件,国体明徴問題などに関与しつつ,満蒙独立運動を推進した。なお,1894年天佑俠という団体をつくり,朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)に参加し,その指導者全琫準と日韓合邦の宿縁を結び,同時に日清戦争をひきおこすのに尽力したとの伝えがあるが,信憑性は極めて疑わしい。
→大アジア主義
執筆者:中塚 明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
右翼運動、国家主義運動の指導者。福岡県に生まれる。玄洋社(げんようしゃ)に学び、1894年(明治27)には天佑侠(てんゆうきょう)の一員として朝鮮で反清(しん)工作にあたる。日清戦争後シベリア調査を行って対露開戦を主張。1901年(明治34)黒竜会(こくりゅうかい)を結成、大アジア主義を唱える。日露戦争後は韓国統監府嘱託として朝鮮併合を画策。辛亥(しんがい)革命のときは中国革命派を援助したが、のち満蒙(まんもう)分離論に転じ、ロシア革命に際してはシベリア出兵を主張した。また国内では民主主義運動や社会主義運動に対抗して活動。31年(昭和6)にはファッショ的大衆組織大日本生産党を結成し、排外主義や国粋主義の鼓吹に努めた。
[安部博純]
『初瀬龍平著『伝統的右翼 内田良平の研究』(1980・九州大学出版会)』▽『滝沢誠著『評伝内田良平』(1976・大和書房)』▽『黒龍倶楽部編『国士内田良平伝』(1967・原書房)』
明治〜昭和期の国家主義者 大日本生産党総裁;黒龍会主幹。
昭和期の俳優
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…また樽井藤吉は,白人の侵略に共同防衛するには,〈各邦の自主自治の政をして,均平に帰せしむ〉日韓の合邦が必要だとした。そして,樽井の創見を継承したのは内田良平である。内田は李容九と結んで樽井の説く対等関係としての日韓合邦に尽力した。…
…日清戦争の際,朝鮮で活動した玄洋社系の団体。1894年,東学農民軍が蜂起すると,これを日清開戦の導火線にしようとする軍部,玄洋社の意をうけて鈴木天眼,内田良平らが渡海し,すでに釜山居留地でアジア経綸を語らっていた田中侍郎,武田範之らのグループに合流した。彼ら十数人は天佑俠を名のり,農民軍の支援を意図して6月下旬に釜山を出発,全羅南道淳昌で農民軍の幹部と接触した。…
※「内田良平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新