三坂村(読み)みさかむら

日本歴史地名大系 「三坂村」の解説

三坂村
みさかむら

[現在地名]西城町三坂

奴可ぬか郡の北部、道後どうご山の南西麓に位置する。南はねこ山がそびえ、北は伯耆国日野ひの多里たり(現鳥取県日野郡日南町)に接する。道後川上流域の標高七〇〇メートル前後の高冷地に集落がある。

もとは小奴可おぬか(現東城町)に属し、三坂野みさかのという原野であったが、寛文四年(一六六四)藩が鉄山開発と併せて開田を計画し、郡廻木本与一右衛門、代官伴孫太夫・三木九太夫、村廻北村源之丞が奴可・三上みかみ両郡に膨大な人夫と費用を割当て、事業を推進した。梅木小左衛門は開村御用掛と庄屋役となり、一二年の歳月を要して計画を完了。開田の方法は畦を造っておき、砂鉄採取のための鉄穴かんな流しによって放出される大量の土砂を流し込む「流し込み」の方法であったといわれる。


三坂村
みさかむら

[現在地名]東城町三坂

北は宇山うやま村、東北は久代くしろ村に接し、神石じんせき郡に属した。村内近屋ちかや位田くらいだの水は東流して新免しんめん郷谷ごうだにに入り下谷しもだにを経て手入てにゆう(現神石郡油木町)で東城川に注ぐが、北部郷谷の水は西流して帝釈たいしやく川に注ぎ、村内西端を帝釈川が流れる。ただし中央部の郷原ごうばら一帯の水は地下の鍾乳洞に吸込まれていわゆる尻無川となる。集落は村域全体が野呂のろと称される石灰岩台地に散在し、帝釈川沿いの谷底部にはほとんどない。


三坂村
みさかむら

[現在地名]前原市三坂

高上たかうえ村の西、雷山らいざん川流域に位置し、南は雷山村。御坂とも記す。正安三年(一三〇一)九月日の蔵人頭奉書(大悲王院文書/鎌倉遺文二七)に「御坂村」とみえ、法持が開発し千手観音の仏餉灯油料田として雷山千如せんによ寺が一円に支配してきたが、怡土いと庄内と主張して違乱が行われたため、千如寺の住侶が訴え勝訴している。建武元年(一三三四)雷山千如寺衆徒は御坂村の在家田畠山野などの安堵を雑訴決断所に求め、翌二年認められた(建武二年九月二九日「雑訴決断所下文」同文書/南北朝遺文(九州編)一)。小早川時代の指出前之帳では八島やしま村も含み田六〇町二反余(分米六一三石余)・畠三町一反余(分大豆一六石余)


三坂村
みさかむら

[現在地名]鳥越村三坂

上野かみの村の西、大日だいにち川左岸に位置する。北西に火灯ひともし(四八〇・九メートル)があり、その南の三坂峠を越え、東方の別宮べつく村から小松町(現小松市)へ至る往還が村内を通る。正保郷帳に村名がみえ高三九四石余、田方一三町九反余・畑方九町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三二九石、免四ツ二歩、小物成は山役一八六匁・川役二七匁(三箇国高物成帳)。弘化三年(一八四六)の軽海郷品々帳(石倉文書)によると、元禄八年(一六九五)二八石の検地引高があり、享保一七年(一七三二)手上高一石を加えられ、高三〇二石、免四ツ二歩、百姓数四五(うち懸作一)


三坂村
みさかむら

[現在地名]茂木町三坂

増井ましい村の南、さか川の右岸に位置し、西部を水戸と茂木を結ぶ往還が通る。文明一四年(一四八二)一一月日の茂木家臣給分注文(茂木文書)に、「十六貫文三坂(散)田」が赤上某の給分としてみえる。近世を通じてほぼ常陸谷田部藩領。慶安郷帳によれば田一五三石余・畑三六石余。寛政七年(一七九五)には家数二二・人数九三、馬一五(「御巡見邑割并村高人別家数覚」山納武雄文書)、天保七年(一八三六)には人数八七(尊徳全集二三)、慶応三年(一八六七)には人数一五七(「茂木領奥州白川人足覚帳」見目荘造文書)


三坂村
みさかむら

[現在地名]三芳村三坂

上堀かみほり村の北に位置する。慶長元年(一五九六)の平之郡三坂村永荒引明細帳(堀田家文書)に名主洲河大蔵とみえるが、この祖は当地の草分という。同二年一〇月の平之郡内三坂村田畑水帳一冊が伝えられていた(古検地帳目録)。同年の安房国検地高目録のきた之郡内に知行方分として村名がみえ、高二二八石余(うち田一九九石余)。同一五年の里見家分限帳では二十人衆の正木領五〇石など四氏の分給。


三坂村
みさかむら

[現在地名]久世町三阪みさか

三坂山に連なる井奥いのお(五八三・四メートル)若尾わかお(五二七・八メートル)砥石といし(四一八・五メートル)に挟まれた谷間の村で、東は樫村西谷かしむらにしだに・同東谷、南は台金屋だいかなや村・多田ただ村など、南西は久世村と多くの村と接する。古来大山往来の宿場が置かれ三坂宿と称し、村名の由来ともなったという三坂山は同往来の難所の一つであった。正保郷帳に村名がみえ、田高一五九石余・畑高八六石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高八八石余・開高一一石余。「作陽誌」によれば戸数三五・人数二六〇。同一一年から津山藩領、享保一二年(一七二七)幕府領に編入され、久世代官所、生野いくの代官所(現兵庫県生野市)などの管轄を経たのち、津山藩預所として幕末に至る。


三坂村
みさかむら

[現在地名]安富町三坂

安志あんじ(現林田川)の支流大谷おおたに川の上流域に位置する。西は低い峠を隔てて植木野うえきの村、大谷川の下流はしも村、東の峠を越えると飾西しきさい護持ごじ(現夢前町)に至る。護持村から当村を経て西の塩野しおの村―須加すか(現山崎町)川戸かわと(現同上)へと結ぶ道は、姫路城下山崎やまさき城下(現山崎町)間の近道としてかなり利用されたらしい。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は延宝七年(一六七九)まで安志村と同じ。同年から幕末まで塩野村と同じ。江戸時代前期の検地年次は安志村と同じ。正保郷帳では田方七〇石余・畠方三五石余。


三坂村
みさかむら

[現在地名]水海道市三坂町

鬼怒きぬ川東岸に所在。南は中妻なかづま村。村域中央を下妻街道が南北に走る。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「ミさかのむら 卅貫文 御年(ママ)銭 斗物六十俵」「志らはた山とう内にて 五貫文 御年具銭」とみえ、南北に細長く延びる集落は、北から上坪かみつぼ中坪なかつぼ沖坪おきつぼ山戸内やまとうち白畑しらはた五家ごかの小字に分れる。

寛永七年(一六三〇)関東郡代伊奈氏の検地があり、名主猪瀬与作(重右衛門)らが名付された(猪瀬重右衛門文書)。「寛文朱印留」には古河藩主の叔父土井利房の領地として村名がみえる。


三坂村
みさかむら

[現在地名]大宮町字三坂

口大野くちおおの村から南東に走る間人たいざ街道沿いの東側山麓に位置し、西側は田圃が開ける。

慶長検地郷村帳に高一二〇・一八石「三坂村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高で一五三石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、翌九年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領と変遷。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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