日本大百科全書(ニッポニカ) 「三木淳」の意味・わかりやすい解説
三木淳
みきじゅん
(1919―1992)
写真家。岡山県藤戸町(現倉敷市)生まれ。1940年代末から国際的なフォトジャーナリストとして活躍した。10歳ごろより写真撮影に親しむ。慶応義塾大学経済学部在学中から写真家を志し、1941年(昭和16)国際報道工芸(1939年、名取洋之助が創設した第二次日本工房の後身)美術部長でグラフィック・デザイナーの亀倉雄策の指導を受け、写真家土門拳の助手を務める。1943年大学を卒業、貿易会社に入社するが、直後に陸軍へ入隊。第二次世界大戦終結後、1947年名取の誘いを受け、友人の写真家稲村隆正(たかまさ)(1923―1989)とともにサンニュースフォトス社に入社、極東軍事裁判の撮影を担当する。同社から創刊されたグラフ雑誌『週刊サンニュース』に東京の停電の様子、銀座、職業安定所、常磐(じょうばん)炭鉱などを取材したドキュメントを多数発表。
1948年INP通信社に移籍。さらに1949年アメリカの国際的グラフ誌『ライフ』を発行するタイムライフ社東京支局の依頼で、同社専属写真家カール・マイダンスCarl Mydansの代役としてシベリア抑留からの引き揚げ再開で帰国した元陸軍兵たちを撮影。このルポルタージュが『ライフ』誌に掲載されたことをきっかけに、同年、タイムライフ社に正式入社。以後1957年に退社するまで同誌へ数々のルポルタージュを発表した。なかでも1951年のサンフランシスコ講和条約調印当時に首相吉田茂を撮影し、同誌表紙を飾った写真は特によく知られている。また、1950年に自らの提唱により写真家グループ「集団フォト」を組織、顧問に土門拳、木村伊兵衛を迎え、大竹省二、佐伯義勝(1927―2012)、田沼武能(たけよし)らが参加。翌年、集団フォト第1回展に際し、フランス人写真家アンリ・カルチエ・ブレッソンの作品を初めて国内に紹介し大きな反響を呼ぶなど、海外のフォトジャーナリストたちと日本の写真界の交流の推進にも貢献した。
タイムライフ社を退社後フリーランスとなり、1958年から翌年にかけて中南米各国を取材撮影。1960年雑誌『日本』に発表したルポルタージュ「麻薬を捜せ」で講談社写真賞受賞。1962年の個展「メキシコ写真展――新興国の表情」(高島屋、東京・日本橋)で日本写真協会年度賞受賞。1977年に日本大学芸術学部教授に就任して以降、後進の指導にも力を注いだ。
[大日方欣一]
『『サンバ・サンバ・ブラジル』(1967・研光社)』▽『『創価学会 写真』(1968・河出書房新社)』▽『『慶応義塾』(1977・美術出版社)』▽『『昭和写真全仕事7 三木淳』(1982・朝日新聞社)』▽『『LIFEのカメラ・アイ 三木淳写真集』(1989・小学館)』▽『『英国物語』(1990・グラフィック社)』▽『『ニコンサロンブックス20 蘭嶼』(1993・ニッコールクラブ)』