世宗(読み)セジョン

デジタル大辞泉 「世宗」の意味・読み・例文・類語

セジョン【世宗】

[1397~1450]李氏朝鮮の第4代国王。在位1418~1450。姓は、名は。漢字の発音を表記するためハングルを制定。また、儒教を篤く保護した。
大韓民国中部に位置する都市ソウルからの首都機能移転を目的に、2012年、唯一の特別自治市として発足した。企画財政部・教育部・行政安全部などが移転済。命名はにちなむ。人口34万(2020)。

せい‐そう【世宗】

中国・朝鮮・ベトナムの王朝における廟号の1つ。の5代・烏禄ウルの12代・嘉靖帝の5代・雍正帝李氏朝鮮の4代・李裪イドなど。せそう。→世宗セジョン

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「世宗」の意味・読み・例文・類語

せい‐そう【世宗】

  1. 中国、金の第五代皇帝(在位一一六一‐八九)。女真名は烏祿。太祖阿骨打(アクダ)の孫。南宋と不仲の海陵王にかわり、南宋との国交を回復し、国内では官吏の粛正、財政の緊縮、女真文化の保護を行ない、金の黄金時代を築いて、小堯舜と呼ばれた。(一一二三‐八九

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「世宗」の意味・わかりやすい解説

世宗(朝鮮、李朝)
せいそう
(1397―1450)

朝鮮、李朝(りちょう)第4代の国王(在位1418~50)。第3代太宗の第3子。在位32年間に、朝鮮の儒教文化、民族国家の基盤は強化され、民族文化も画期的な発展を遂げた。そのため、世宗の時代は「李朝の黄金時代」、世宗は「海東(朝鮮)の堯舜(ぎょうしゅん)」といわれた。朱子学を教学の基本とし、儒教的王道政治の確立を目ざし、冠婚葬祭や儀礼全般にわたる朱子家礼の遵守、『三綱行実』『孝行録』の刊行などによる儒教倫理の普及にも力を注いだ。また、抑仏政策を推進し、寺院所属の莫大(ばくだい)な土地と奴婢(ぬひ)を国家に没収した(ただし、晩年の世宗は王宮内に仏閣を建立し、仏教を尊崇した)。税役面では、徭役(ようえき)賦課基準を人丁数から耕地面積規模にかえる大改革を実施し、貢納物についても代価を公定し、米納などによる代納を公認した。また、耕地を肥瘠(ひせき)に応じて6段階に、作柄を豊凶に応じて9段階に分ける田分法・年分法を制定して生産物徴収の合理化を図り、法典類の再整理、改編を行って、『経国大典』(李朝の基本法典、1470公布)の基礎も築いた。

 文化面では、1446年に「訓民正音」(ハングル)を創製・公布し、また、朝鮮独自の農業書である『農事直説』、医薬を集大成した『医方類聚(るいじゅう)』、イスラム暦も加えた総合的な暦書である『七政書(しちせいしょ)』などを刊行したほか、地理書では『八道地理志』を完成させ、歴史書では『高麗(こうらい)史』や『高麗史節要』の大編纂(へんさん)事業をほぼ完成させた。科学技術面でも、天文観測器や天球儀の製作、世界最初といわれる雨量測定器の製作、金属活字や製紙法、各種大砲などの改良を行わせた。対外関係では、国境を初めて豆満江(とまんこう)にまで拡大し、1419年には倭寇(わこう)の根拠地となっていた対馬(つしま)を攻め(応永(おうえい)の外寇(がいこう))、その後、三浦(さんぽ)(三港)を日本に開港し、1443年には対馬島主宗(そう)氏との間に癸亥(きがい)約条(嘉吉(かきつ)条約)を結び、日朝貿易の基礎を築いた。

[矢澤康祐]


世宗(金)
せいそう
(1123―1189)

金の第5代皇帝(在位1161~89)。祖父は阿骨打(アクダ)。父は宗輔。上京会寧(かいねい)府(黒竜江省)に生まれる。女真(じょしん)名は烏禄(うろく)。諱(いみな)は雍(よう)。1161年、金の第4代皇帝海陵(かいりょう)王が、南宋(なんそう)を滅ぼして中国を統一するため南征軍を起こしたが、国力と人々の意向を無視した動員であったため、契丹(きったん)人の間から反乱が起こり、女真人も海陵王に背いた。東京(とうけい)留守として遼陽(りょうよう)にいた烏禄は、渤海(ぼっかい)人の後裔(こうえい)や海陵王に反感をもつ女真豪族に支持され、帝位につき大定と改元した。海陵王は南征の途中で部下に殺された。62年、烏禄すなわち世宗は燕京(えんけい)(北京(ペキン))に遷都し、契丹人の反乱を鎮定し、65年、宋と和議を結んだ。長年にわたる宋との交戦や契丹人反乱の鎮定のため、金国は財政難に陥っていたが、世宗は自ら倹約を実行し、仏教教団に度牒(どちょう)、師号を売り、富民に米粟(べいぞく)を上納させて官を与え、財政を立て直そうとした。また64年、民衆の財産を査定して一定の税をとる物力銭(ぶつりきせん)の徴収を始めた。財産査定のことを通検推排(つうけんすいはい)といった。

 世宗は女真の固有の風俗の作興に努め、1164年、女真文字によって漢籍を翻訳し、女真語により試験を行って女真進士を登用し、京師に女真国士学を設け、女真語の普及に努めた。また、貧窮した猛安(もうあん)・謀克(ぼうこく)戸の救済のため、80年に改めて土地調査を行い、豪族の土地を没収し、土地をもたぬ女真戸に分配した。しかしその効果は一時的であって、女真人の貧困と政府財政の窮乏を救うに至らず、金国の基盤は崩壊しつつあった。

[河内良弘]

『三上次男著『金代女真の研究』(1937・座右宝刊行会)』『外山軍治著『金朝史研究』(1964・東洋史研究会)』


世宗(明)
せいそう

嘉靖帝


世宗(清)
せいそう

雍正帝


世宗(後周)
せいそう

柴栄


世宗(漢)
せいそう

武帝

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「世宗」の意味・わかりやすい解説

世宗 (せいそう)
Shì zōng
生没年:921-959

中国,五代後の第2代皇帝。在位954-959年。姓名は柴栄。太祖郭威の柴皇后の甥で,太祖の養子となり,34歳で帝位を継いだ。老弱兵を大量に整理し,地方節度使管下の部隊から精鋭を抽出して中央に集中し,さらにそのうちの優秀なものを集めて殿前諸班という親衛部隊を編成した。この禁軍の大改革で五代最強かつ厳正な軍隊をつくり上げ,統一事業を推進した。まず後を討って軍馬供給地を含む4州を取り,ついで南を攻めて淮南・江北14州を奪取した。この産塩地帯を押さえることで長江(揚子江)上流諸国は死命を制せられることになった。北に転じて契丹(きつたん)から燕雲十六州の失地回復に着手,瓦橋関以南の3州を奪還し,さらに北進して幽州に迫りながら病没,統一事業は半ばにして未完に終わった。内政面でも,廃仏を断行して大量の仏像を貨幣に改鋳し,《大周刑統》を制定し,均税を行って農業生産の回復を図るなど,による統一の基礎は世宗によってほぼ作り上げられた。五代第一の名君と称せられる。
五代十国
執筆者:


世宗 (せいそう)
Se-jong
生没年:1397-1450

朝鮮,李朝第4代の国王。在位1418-50年。本名は李祹(りとう)。太宗の第3子。内外政に治績をあげて李朝の基盤を固め,後世,〈海東の尭舜〉とたたえられる。農業を重視し,《農事直説》という農書を編纂させ,田制詳定所を設けて田制の改革を行った。文化事業も盛んに推進し,《訓民正音》(朝鮮文字,ハングル)を作成させ,《高麗史》《高麗史節要》《竜飛御天歌》《資治通鑑訓義》などの編纂事業と並行して銅活字を鋳造させた。また高麗時代に勢力をもった仏教を統制して禅・教2宗に統合する一方,儒学をすすめ,《治平要覧》《五礼儀》《三綱行実》などを編纂させた。対外政策も積極的に進め,豆満江,鴨緑江まで領土を拡大して南部地方の住民を移住させ,さらに倭寇の本拠地を壊滅させるべく対馬を攻撃(応永の外寇)したが,のちに三浦(さんぽ)(乃而(ないじ)浦,富山浦,塩浦)を開港し,対馬島主宗氏を介して日本との勘合貿易を開始した。
執筆者:


世宗 (せいそう)
Shì zōng
生没年:1123-89

中国,金朝第5代の皇帝。在位1161-89年。完顔雍(女真名烏禄)。1161年(正隆6),海陵王が無謀な南宋討伐を企ててひきおこした動乱の最中に,当時東京留守の任にあった世宗は海陵王に不満をもつ女真人や渤海人に推されて遼陽で即位した。海陵王が兵士に殺された後,同年世宗は中都(現,北京)に進出して,まず契丹人の反乱を収拾し,宋と和議を結んで(1165)平和を回復した。そして物力銭など新しい経済政策を実施する一方,経費を抑えて国家財政をたて直し,また地方官に人材を抜擢して民生の安定につとめた。矛盾が大きくなった猛安謀克(もうあんぼうこく)制に対しても改革を断行して再建をはかった。世宗の治世は金の全盛時代で,世宗はのちに小尭舜とたたえられた。
執筆者:


世宗(明) (せいそう)
Shì zōng


世宗(清) (せいそう)
Shì zōng

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「世宗」の意味・わかりやすい解説

世宗[金]
せいそう[きん]
Shi-zong; Shih-tsung

[生]天会1 (1123)
[没]大定29 (1189)
中国,の第5代皇帝(在位 1161~89)。諱は雍(よう)。女真名は烏禄。諡は光天興運文徳武功聖明仁孝皇帝。父は太祖の子宗輔(そうほ)。仁孝,沈静,聡明で騎射に巧みであった。海陵王の南宋親征の最中,クーデターによって東京留守(とうけいりゅうしゅ)の地位から推戴されて皇帝の位につき,大定2(1162)年契丹人反乱(→契丹)を鎮定,同 5年南宋と講和。混乱した経済の安定のため種々の財政緊縮策を打ち出し,財産税である物力銭を徴収し,貧窮した猛安・謀克戸の救済を行なった。文化上女真語女真文字を奨励し,女真文化尊重策をとり,金朝の最盛期を築いた。

世宗[朝鮮王朝]
せいそう[ちょうせんおうちょう]
Sejong

[生]太祖6(1397)
[没]世宗32(1450)
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) の第4代の王 (在位 1418~50) 。字は元正。諱はとう。諡は荘憲。太宗の第3子。朝鮮王朝歴代国王中,内治,外交,文化の分野で最も大きな業績を残した名君といわれる。訓民正音 (→ハングル ) の創製をはじめ,人材登用制,田制の整備に努めた。『農事直説』『五礼儀』『治平要覧』をはじめ,『医方類聚』『高麗史』『竜飛御天歌』などの編纂,また活字,印刷技術の改良,音楽,天文,暦法の書籍,機具の製造などを行なった。仏教に対しては,初めきびしい統制を加えたが,晩年には奨励して,仏典をも翻訳した。また日本には初め対馬島攻略もあったが,のち勘合貿易を開いた。北方を開拓して,豆満江方面に6鎮,鴨緑江方面に4郡を設置した。

世宗[後周]
せいそう[こうしゅう]

柴栄」のページをご覧ください。


世宗[清]
せいそう[しん]

雍正帝」のページをご覧ください。


世宗[明]
せいそう[みん]

嘉靖帝」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「世宗」の意味・わかりやすい解説

世宗【せいそう】

朝鮮,李朝第4代国王(在位1418年―1450年)。《訓民正音》を作成させてハングルによる朝鮮語の表記法を確立し,農書《農事直説》や史書《高麗史》などの編集事業を推進した。また倭寇(わこう)壊滅のため対馬を攻撃(応永の外寇)したが,後には対日交易のため三浦(さんぽ)を置いた。名君として韓国では象徴化され,紙幣の肖像にもなっている。
→関連項目宗廟

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「世宗」の解説

世宗(李氏朝鮮)
せいそう

1397〜1450
李氏朝鮮第4代の王(在位1418〜50)
李朝の黄金時代を築いて,「海東の堯舜 (ぎようしゆん) 」とたたえられた李朝第一の名君。貢 (こう) と賦の基本法制を定め,官制・税制を整備。農業を奨励し,農業技術を改良するために『農業直説』を編纂 (へんさん) 頒布 (はんぷ) し,天文観測と暦書作成につとめ,仏教を排して儒学を国教とする方針を強化した。また訓民正音(ハングル)を制定したほか,『治平要覧 (ちへいようらん) 』『高麗史 (こうらいし) 』などを編集し,外は北辺を開拓したほか,対馬島主宗氏を介して日本との貿易を開いた。

世宗(後周)
せいそう

921〜959
五代の後周 (こうしゆう) 第2代皇帝(在位954〜959)。五代第一の名君といわれる
名は柴栄 (さいえい) 。北は遼 (りよう) ・北漢の連合軍を破り,西は後蜀 (こうしよく) ,南は南唐を討って領土を拡張し,燕雲十六州 (えんうんじゆうろくしゆう) の一部を遼より奪回して幽州に迫ったが,病死した。仏教を圧迫し,農政にも心をとめ,均税法を行って租税負担の公平を期するなど内政を整え,宋の統一の基礎をつくった。

世宗(金)
せいそう

1123〜89
金の第5代皇帝(在位1161〜89)。金朝第一の名君で,小堯舜 (ぎようしゆん) とも呼ばれた
南宋攻撃中の海陵 (かいりよう) 王に反対して遼寧 (りようねい) (遼陽)で即位し,中都(北京)に進出。契丹 (きつたん) 人の反乱を平定し,官紀の粛正,財政の緊縮,民生の安定などの諸政策を実施し,南宋に対して平和政策をとった。

世宗(清)
せいそう

雍正 (ようせい) 帝

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「世宗」の解説

世宗 せいそう

1397-1450 朝鮮王朝の第4代国王。在位1418-50。
太祖6年4月10日生まれ。太宗の子。名君といわれ訓民正音(ハングル)の制定で知られる。倭寇(わこう)の本拠地とみなした対馬(つしま)を襲撃(応永の外寇(がいこう))したが,のち富山浦など三浦(さんぽ)を開港し,対馬島主宗(そう)氏を介して日本との修好通商関係を拡大した。世宗32年2月17日死去。54歳。姓は李。諱(いみな)は祹(とう)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の世宗の言及

【嘉靖帝】より

…明朝第12代の皇帝,在位1521‐66年。姓は朱,名は厚,廟号は世宗,年号によって嘉靖帝とよばれる。孝宗の弟である興献王の長子で,父のあとをついで湖北の安陸州の藩王であったが,武宗が子をもうけずに没したため,跡継ぎに迎えられた。…

【雍正帝】より

…在位1723‐35年。名は胤禛,諡(おくりな)は憲皇帝,廟号(びようごう)は世宗。康熙帝の第4子で,帝位継承をめぐる抗争の末,46歳で即位,在位期間は短かったが,君主専制体制を確立するうえで力があった。…

※「世宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android