朝鮮、李朝(りちょう)第4代の国王(在位1418~50)。第3代太宗の第3子。在位32年間に、朝鮮の儒教文化、民族国家の基盤は強化され、民族文化も画期的な発展を遂げた。そのため、世宗の時代は「李朝の黄金時代」、世宗は「海東(朝鮮)の堯舜(ぎょうしゅん)」といわれた。朱子学を教学の基本とし、儒教的王道政治の確立を目ざし、冠婚葬祭や儀礼全般にわたる朱子家礼の遵守、『三綱行実』『孝行録』の刊行などによる儒教倫理の普及にも力を注いだ。また、抑仏政策を推進し、寺院所属の莫大(ばくだい)な土地と奴婢(ぬひ)を国家に没収した(ただし、晩年の世宗は王宮内に仏閣を建立し、仏教を尊崇した)。税役面では、徭役(ようえき)賦課基準を人丁数から耕地面積規模にかえる大改革を実施し、貢納物についても代価を公定し、米納などによる代納を公認した。また、耕地を肥瘠(ひせき)に応じて6段階に、作柄を豊凶に応じて9段階に分ける田分法・年分法を制定して生産物徴収の合理化を図り、法典類の再整理、改編を行って、『経国大典』(李朝の基本法典、1470公布)の基礎も築いた。
文化面では、1446年に「訓民正音」(ハングル)を創製・公布し、また、朝鮮独自の農業書である『農事直説』、医薬を集大成した『医方類聚(るいじゅう)』、イスラム暦も加えた総合的な暦書である『七政書(しちせいしょ)』などを刊行したほか、地理書では『八道地理志』を完成させ、歴史書では『高麗(こうらい)史』や『高麗史節要』の大編纂(へんさん)事業をほぼ完成させた。科学技術面でも、天文観測器や天球儀の製作、世界最初といわれる雨量測定器の製作、金属活字や製紙法、各種大砲などの改良を行わせた。対外関係では、国境を初めて豆満江(とまんこう)にまで拡大し、1419年には倭寇(わこう)の根拠地となっていた対馬(つしま)を攻め(応永(おうえい)の外寇(がいこう))、その後、三浦(さんぽ)(三港)を日本に開港し、1443年には対馬島主宗(そう)氏との間に癸亥(きがい)約条(嘉吉(かきつ)条約)を結び、日朝貿易の基礎を築いた。
[矢澤康祐]
金の第5代皇帝(在位1161~89)。祖父は阿骨打(アクダ)。父は宗輔。上京会寧(かいねい)府(黒竜江省)に生まれる。女真(じょしん)名は烏禄(うろく)。諱(いみな)は雍(よう)。1161年、金の第4代皇帝海陵(かいりょう)王が、南宋(なんそう)を滅ぼして中国を統一するため南征軍を起こしたが、国力と人々の意向を無視した動員であったため、契丹(きったん)人の間から反乱が起こり、女真人も海陵王に背いた。東京(とうけい)留守として遼陽(りょうよう)にいた烏禄は、渤海(ぼっかい)人の後裔(こうえい)や海陵王に反感をもつ女真豪族に支持され、帝位につき大定と改元した。海陵王は南征の途中で部下に殺された。62年、烏禄すなわち世宗は燕京(えんけい)(北京(ペキン))に遷都し、契丹人の反乱を鎮定し、65年、宋と和議を結んだ。長年にわたる宋との交戦や契丹人反乱の鎮定のため、金国は財政難に陥っていたが、世宗は自ら倹約を実行し、仏教教団に度牒(どちょう)、師号を売り、富民に米粟(べいぞく)を上納させて官を与え、財政を立て直そうとした。また64年、民衆の財産を査定して一定の税をとる物力銭(ぶつりきせん)の徴収を始めた。財産査定のことを通検推排(つうけんすいはい)といった。
世宗は女真の固有の風俗の作興に努め、1164年、女真文字によって漢籍を翻訳し、女真語により試験を行って女真進士を登用し、京師に女真国士学を設け、女真語の普及に努めた。また、貧窮した猛安(もうあん)・謀克(ぼうこく)戸の救済のため、80年に改めて土地調査を行い、豪族の土地を没収し、土地をもたぬ女真戸に分配した。しかしその効果は一時的であって、女真人の貧困と政府財政の窮乏を救うに至らず、金国の基盤は崩壊しつつあった。
[河内良弘]
『三上次男著『金代女真の研究』(1937・座右宝刊行会)』▽『外山軍治著『金朝史研究』(1964・東洋史研究会)』
中国,五代後周の第2代皇帝。在位954-959年。姓名は柴栄。太祖郭威の柴皇后の甥で,太祖の養子となり,34歳で帝位を継いだ。老弱兵を大量に整理し,地方節度使管下の部隊から精鋭を抽出して中央に集中し,さらにそのうちの優秀なものを集めて殿前諸班という親衛部隊を編成した。この禁軍の大改革で五代最強かつ厳正な軍隊をつくり上げ,統一事業を推進した。まず後蜀を討って軍馬供給地を含む4州を取り,ついで南唐を攻めて淮南・江北14州を奪取した。この産塩地帯を押さえることで長江(揚子江)上流諸国は死命を制せられることになった。北に転じて契丹(きつたん)から燕雲十六州の失地回復に着手,瓦橋関以南の3州を奪還し,さらに北進して幽州に迫りながら病没,統一事業は半ばにして未完に終わった。内政面でも,廃仏を断行して大量の仏像を貨幣に改鋳し,《大周刑統》を制定し,均税を行って農業生産の回復を図るなど,宋による統一の基礎は世宗によってほぼ作り上げられた。五代第一の名君と称せられる。
→五代十国
執筆者:愛宕 元
朝鮮,李朝第4代の国王。在位1418-50年。本名は李祹(りとう)。太宗の第3子。内外政に治績をあげて李朝の基盤を固め,後世,〈海東の尭舜〉とたたえられる。農業を重視し,《農事直説》という農書を編纂させ,田制詳定所を設けて田制の改革を行った。文化事業も盛んに推進し,《訓民正音》(朝鮮文字,ハングル)を作成させ,《高麗史》《高麗史節要》《竜飛御天歌》《資治通鑑訓義》などの編纂事業と並行して銅活字を鋳造させた。また高麗時代に勢力をもった仏教を統制して禅・教2宗に統合する一方,儒学をすすめ,《治平要覧》《五礼儀》《三綱行実》などを編纂させた。対外政策も積極的に進め,豆満江,鴨緑江まで領土を拡大して南部地方の住民を移住させ,さらに倭寇の本拠地を壊滅させるべく対馬を攻撃(応永の外寇)したが,のちに三浦(さんぽ)(乃而(ないじ)浦,富山浦,塩浦)を開港し,対馬島主宗氏を介して日本との勘合貿易を開始した。
執筆者:吉田 光男
中国,金朝第5代の皇帝。在位1161-89年。完顔雍(女真名烏禄)。1161年(正隆6),海陵王が無謀な南宋討伐を企ててひきおこした動乱の最中に,当時東京留守の任にあった世宗は海陵王に不満をもつ女真人や渤海人に推されて遼陽で即位した。海陵王が兵士に殺された後,同年世宗は中都(現,北京)に進出して,まず契丹人の反乱を収拾し,宋と和議を結んで(1165)平和を回復した。そして物力銭など新しい経済政策を実施する一方,経費を抑えて国家財政をたて直し,また地方官に人材を抜擢して民生の安定につとめた。矛盾が大きくなった猛安謀克(もうあんぼうこく)制に対しても改革を断行して再建をはかった。世宗の治世は金の全盛時代で,世宗はのちに小尭舜とたたえられた。
執筆者:松浦 茂
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…明朝第12代の皇帝,在位1521‐66年。姓は朱,名は厚,廟号は世宗,年号によって嘉靖帝とよばれる。孝宗の弟である興献王の長子で,父のあとをついで湖北の安陸州の藩王であったが,武宗が子をもうけずに没したため,跡継ぎに迎えられた。…
…在位1723‐35年。名は胤禛,諡(おくりな)は憲皇帝,廟号(びようごう)は世宗。康熙帝の第4子で,帝位継承をめぐる抗争の末,46歳で即位,在位期間は短かったが,君主専制体制を確立するうえで力があった。…
※「世宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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