室町時代の武家の家格。1358年(正平13・延文3)以降室町幕府の執事(のち管領)は細川・斯波の二大有力守護家から出していたが,1398年(応永5)6月,将軍足利義満は河内・尾張・越中守護の畠山基国を管領に抜擢し,以後はこの三家が管領を出す守護家として固定し,世人はこれを三管領と称した。しかし基国の登用は畠山氏をしのぐ有力大名であった大内氏を刺激し,これが1399年の応永の乱の一因になったといわれる。この後,斯波氏は1433年(永享5)義淳の死後家督紛争もあって衰え,畠山氏もまた1455年(康正1)持国の没後,政長と義就の一族内訌が弱体化を招き,細川氏ひとり幕閣の主導権を握る情勢となった。かくて1487年(長享1)細川政元の就任以後は,他の2家から管領を出さなくなり,管領職自体も将軍就位時のみ置かれる儀式上の臨時職と化し,細川氏が単独で幕府政治を領導する体制となっていった。
→管領
執筆者:今谷 明
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