明治初年,政府により制定され,太政官制の布告によって廃止されるまで,約6ヵ月間存続した官制。1867年(慶応3)12月,王政復古の大号令により,明治政府が成立するとともに,総裁,議定,参与の三職が設置された。総裁には有栖川宮熾仁(たるひと)親王が任ぜられて,国政を総理した。また議定には多くの皇族および公卿らが就任するとともに,参与には岩倉具視以下の公卿に加えて,尾張,越前,広島,土佐,薩摩の5藩の藩士らが着任した。薩摩藩士のなかには,のちに政府の実権者となる大久保利通や西郷隆盛らも含まれ,その意味で,この時期の三職の人事には,王政復古に参加した5藩の武家と,倒幕派公卿とが協力した維新政権の雄藩連合的性格が現れていた。その後,薩摩藩指導の武力討幕派と土佐藩中心の公議政体派の争いの過程で戊辰戦争が展開され,前者はその基礎を固めるために,その方法として,前記の5藩連合政権を,かたちのうえで全国的な連合政権に拡大することを意図した。その結果,実施された官制改革,その後の政体書発布の主要なねらいは,その点にあった。三職七科制は,68年(明治1)1月,三職のなかに新たに副総裁を置いて,前記の岩倉それに三条実美(さねとみ)をそれに任じたうえ,7事務科を新設した。神祇,内国,外国,陸海軍,会計,刑法,制度の各部局がそれらであり,各事務科には事務総督と事務掛が置かれた。総督には議定,掛には参与をあて,それぞれ数人を任命したが,公卿の参与は総督となることができた。またとくに神祇事務科の総督と掛には議定,参与以外からも就任できた。祭祀をおこなうという特殊な職務を担当していたのが,その理由であろう。その後,同年2月,政府は官制改革により,三職八局制を制定した。改革当初,総裁に前記の有栖川宮,副総裁に前記の三条,岩倉らが留任,輔弼に中山忠能,正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる),総裁局顧問に木戸,大久保らが就任し,弁事(参与分掌)十余人が任命された。また八局の筆頭は神祇事務局で,以下,内国,外国,軍防,会計,刑法,制度の各事務局が設置された。各事務局の督(議定分掌)には公卿,輔(議定・参与分掌)には越前,佐賀その他の雄藩藩主,判事(参与分掌)には伊藤博文,大隈重信,大久保利通,後藤象二郎などの旧西南雄藩の志士たちが任ぜられた。このように,三職七科制と三職八局制は,政府の政策案を審議決定する合議組織として,中央官省のなかの最高機関に位置づけられ,その運用には明治維新の〈功臣〉が多数任命された。こうした諸官職は68年閏4月に,政体書の制定によって廃止され,その後,三権分立,議会制度,官吏公選の方針をかかげた列藩同盟的政権が姿を現すことになる。
→王政復古
執筆者:石塚 裕道
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1867年(慶応3)12月9日から翌年閏(うるう)4月21日に至る間の、維新政府の中央組織。67年12月の王政復古によって誕生した維新政府は、摂政、関白、幕府などの統治機関を廃し、総裁、議定(ぎじょう)、参与からなる三職を置いた。三職は政策決定機構というべきで、着想の源泉は幕末の上下議院論にある。議定は上院に、参与は下院に相当する。したがって議定は上級廷臣、諸侯から、参与は下級廷臣ならびに西南雄藩の藩士から任命された。総裁が置かれ、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が任命されたのは、明治天皇が弱年であったからであろう。なお、のちに副総裁が置かれて、三条実美(さねとみ)と岩倉具視(ともみ)が任命された。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに勝利を収め近畿、西日本を支配下に置いた維新政権は行政組織を必要とし、1868年(慶応4)正月17日、三職のもとに神祇(じんぎ)、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度の七科を置いた(三職七科制)。科の長官たる総督には議定が、次官ないし高級官吏ともいうべき掛(かかり)には参与が任命された。2月3日、七科は廃され、八局となった(三職八局制)。七科はそれぞれ局(海陸軍のみは軍防と改称)となり、首位に総裁局が設置された。ここには、木戸孝允(たかよし)、小松帯刀(たてわき)、後藤象二郎(しょうじろう)、大久保利通(としみち)ら薩長土(さっちょうど)の有力藩士が顧問として任命された。有力藩士の政治指導が不十分ながら制度的に保証されたわけであり、中央集権的な色彩が強まったわけである。しかし、三職制はしょせん臨時の機構であり、閏4月21日に廃止されて、政体書に基づく太政官(だじょうかん)制がこれにかわった。
[井上 勲]
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王政復古の結果成立した新政府の要職の総裁・議定(ぎじょう)・参与の総称。1867年(慶応3)12月9日,王政復古の大号令により幕府および摂政・関白などが廃止となり,天皇のもとに三職が設けられ,国政の中枢となった。総裁には有栖川宮熾仁(たるひと)親王,議定には皇族・公卿・諸侯(雄藩藩主),参与には公家および鹿児島・高知・福井などの雄藩(のち萩藩も加わる)の藩士各3人が任じられた。68年(明治元)閏4月,政体書発布により廃止。
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…しかし下司が在地荘官の筆頭者として〈惣公文〉と呼ばれたり,大田荘のように荘を構成する二つの郷にそれぞれ下司がおり,郷内の村ごとに公文がいるといった場合もあり,かならずしも文書取扱いの専掌者ではないのが普通である。室町時代には公文,田所,惣追捕使を〈三職〉と称し(播磨国矢野荘や備中国新見荘),相ともに年貢・公事の収納や領家との折衝に当たった。公文にはその職務に対して得分が与えられる。…
…荘園支配者はこれらの人々を代官職に補任するさい,酒肴料(しゆこうりよう),補任料をとり,来納の名目で年貢銭を前借することもふつうに行われた。代官は職人ともいわれた公文,田所,惣追捕使(しばしば三職とよばれる)などの下級荘官とともに,出挙利銭を百姓に貸しつけて耕作を円滑にさせ,徴収した年貢を市場で和市(わし)によって売却,銭などで送進し,現地の守護代との交渉に必要な一献料,礼銭等の諸費用を支出,毎年の収支決算書(散用状)を作って荘園支配者側の監査を受けた。 しかしこうした請負代官は恣意的な雑事を百姓に課し,利銭をきびしく取り立てるなど収奪を強行することが多く,鎌倉後期以降,これを糾弾する平民百姓たちが下級荘官までまきこんで一揆・逃散し,その罷免を要求して強訴したり,損免を要求して一歩も引かぬ姿勢を示すこともしばしばおこった。…
…彼らは一般にその職務に対する報酬として,ほとんど全収穫を収取しうる佃(預所,地頭に多く見られ下司以下には少ない),年貢,雑公事とも収取しうる下司給・公文給などの給田,雑公事の収取を認められる下司名・公文名などの給名,そのほか労働力を自己の直営田で使役できる免家さらには加徴米などを給与されたが,しばしばその許可限度を超えた賦課を行い,一般百姓と対立した。室町時代になると,上記の下司以下の荘官のうち,公文・田所・惣追捕使がもっとも普通の形となり三職といわれるようになった。武家(管領細川氏)被官の代官を排除し,寺家直務の実現に努力した東寺領備中国新見荘の三職の活躍は著名である。…
… すこし時代が下ると〈富士郡田所職〉(《吾妻鏡》文治3年(1187)12月10日条)など郡田所職も見えるが,これはむしろ以下に述べる荘園の田所職に準ずるものであろう。荘園の田所の初見は,1162年(応保2)11月18日の摂津国椋橋西荘司等陳状案で,荘司として下司,案主,専当とともに〈田所橘季隆〉が署名しているものであり,以来中世を通じて下司,公文,惣追捕使とともにもっとも一般的な荘官名となり,とくに室町時代には公文,惣追捕使とともに三職と呼ばれるようになった。荘官としての田所には給田として年貢・雑公事ともその得分としうる田所給と,雑公事のみを取得しうる田所名が与えられた。…
※「三職」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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