三谷寺(読み)みたにじ

日本歴史地名大系 「三谷寺」の解説

三谷寺
みたにじ

[現在地名]飯山町東坂元

山の南麓丘陵の谷奥に位置する。真言宗御室派、宝珠山世尊院と号する。山田やまだ郡の三谷寺(現高松市)に対しての称から西三谷寺とも称した。創建当時の瓦を焼成したとみられる平安時代後期の窯跡が当寺仁王門側にあり、別に同時代の均整蓮華文・唐草文の軒平瓦二点が出土していることから、当寺の創建は平安後期ではないかと考えられる。江戸時代初めに書かれた西三谷寺縁起、世尊院来由記などによれば、行基の開創で、天平年間(七二九―七四九)天下疱瘡が蔓延した折、聖武天皇の宣旨を受け当寺においても懇祈したところ効験があり、八葉山施無畏寺の号で称されるようになった。

三谷寺
みたにでら

[現在地名]高知市三谷

三谷集落北方の山の中腹にある。真言宗豊山派。清水山弘法院と号し、本尊千手観音。古くは三谷山千手院弘法寺と称した。

「南路志」によれば、平城天皇の時、坂上田村麻呂が現世安民の御願として六〇余州に建立した寺の一で、本尊の千手観音は京都清水寺の本尊と同作と伝える。弘法大師が延暦年間(七八二―八〇六)と弘仁年間(八一〇―八二四)の二度にわたり当寺に立寄り、薬師如来と不動明王を刻み安置したと伝え、弘法大師を当寺中興とする。永禄二年(一五五九)長宗我部氏・本山氏の戦いの時に全焼、千手観音・薬師仏・不動明王は他所に難を避けたという。寛文五年(一六六五)土佐藩三代藩主山内忠豊が浦戸うらど沖で台風に遭ったが、当寺の本尊の利益によって難を逃れたといい、その報謝のため建立再興して寺禄一八石を付与、さらに授子の利益により四代豊昌が誕生、海難利益と子授けの観音として信仰を受けたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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