精選版 日本国語大辞典 「浄土教」の意味・読み・例文・類語
じょうど‐きょう ジャウドケウ【浄土教】
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仏教でとくに清浄な仏の国に往生(おうじょう)するよう努めることを説く教え。もともと浄土とは諸仏の住むところというが、釈尊の死後、仏塔、仏影、菩提樹(ぼだいじゅ)などによって、信者たちは現在仏、釈尊への帰依(きえ)を表していた。十方(じっぽう)の世界には無量の諸仏が現存するという大乗仏教の興隆により、阿閦仏(あしゅくぶつ)の東方妙喜(みょうき)国、阿弥陀仏(あみだぶつ)の西方十万億土の極楽(ごくらく)世界に生まれて見仏聞法して悟りを得ることを求める信仰が発展した。とくに万人の願いである無量の寿、無量の光をもつ阿弥陀浄土の思想は、クシャン(貴霜)王朝下の西北インドで、紀元100年ごろに成立したといわれる。阿弥陀浄土を説いた主要経典は、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『阿弥陀経』、中国で撰述(せんじゅつ)されたと疑われる『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の浄土三部経であるが、『無量寿経』がその中心である。浄土往生には厳しい戒律生活や修行は要求されず、如来(にょらい)の本願を信じてただひたすら阿弥陀仏の名を唱えれば速やかに浄土に往生して不退転の位に入れるという信仰は、多くの人々の帰信するところとなった。
[牧田諦亮]
179年(光和2)後漢(ごかん)の霊帝の世に支婁迦讖(しるかせん)が『般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)』を訳したことが、中国における浄土教の初伝として知られる。のち鳩摩羅什(くまらじゅう)らによって多数の浄土教経典が漢訳されて、インドの浄土教は中国に発展の機を得た。仏教が中国に入った経路にあたるシルク・ロードの重要な遺跡には、浄土教絵画・彫刻などを示す芸術作品が多くあったことが知られる。東晋(とうしん)、廬山(ろざん)の慧遠(えおん)(334―416)は『般舟三昧経』によって十方現在仏の一としての阿弥陀仏を想念する白蓮社(びゃくれんしゃ)という念仏団体をつくり、結社念仏をたてた。それは、後の中国の称名(しょうみょう)念仏とは異なるが、浄土教の始祖とされ、日本の浄土宗でも僧侶(そうりょ)の法名に蓮社号を用いる。中国仏教でとくに強調された末法(まっぽう)思想は、現実の不安定な世相に失望し、希望を後世に託そうとする浄土教信仰の発展に大きな影響を与えた。不老長生の法を求めんとした曇鸞(どんらん)(476―542)は菩提流支(ぼだいるし)から『無量寿経』を与えられて浄土念仏の修行者となる。その著『浄土論註(ろんちゅう)』はインドの二大思想(世親(せしん)の『浄土論』と龍樹(りゅうじゅ)の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』)を調和融合させたもので、このなかに庶民の浄土信仰の実践としての礼拝(らいはい)・讃歎(さんだん)・作願(さがん)・観察(かんざつ)・回向(えこう)の五念門が説かれ、中国浄土教の基礎を確立した。この後、道綽(どうしゃく)(562―645)、善導(ぜんどう)(613―681)らに受け継がれて中国人に相応した仏教としての浄土教が発展した。中唐以降には五台山の法照(ほうしょう)(?―821)が「五会念仏法事讃(ごえねんぶつほうじさん)」を中心として念仏の庶民化、普及に努めた。入唐(にっとう)僧円仁(えんにん)がこの五会念仏を日本に持ち帰り、日本浄土教の発展に大きな影響を与えた。宋(そう)代を通じて蓮社念仏は浙江(せっこう)省を中心に流行し、ついに禅浄(ぜんじょう)融合の念仏が中国仏教の主流となった。
[牧田諦亮]
奈良時代に浄土経典が中国から将来され、その萌芽(ほうが)は智光(ちこう)、善珠(ぜんしゅ)らにもみられるが、中国の官立仏教の風を伝えた奈良時代には振るわなかった。平安時代、最澄(さいちょう)により天台宗が開創されると、比叡山(ひえいざん)常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に円仁が中国の五会念仏を将来、「不断(ふだん)念仏」として発展し、「朝題目夕念仏(あさだいもくゆうねんぶつ)」の独特の宗風がおこり、比叡山に住した源信(恵心僧都(えしんそうず))が『往生要集』を著し、浄土教発展に果たした役割はきわめて大きい。ひいては鎌倉時代に、法然(ほうねん)(源空)による浄土宗が確立し、親鸞(しんらん)によって浄土真宗が、一遍(いっぺん)(智真(ちしん))によって時宗が成立し、当時の社会不安や末法思想の流行と相まって日本浄土教の大成をみることとなる。
[牧田諦亮]
『望月信亨著『浄土教の起源及発達』(1930・共立社)』▽『望月信亨著『支那浄土教理史』(1942・法蔵館)』▽『藤田宏達著『原始浄土思想の研究』(1970・岩波書店)』▽『中村元他監修・編集『アジア仏教史 インド編Ⅲ 大乗仏教』(1973・佼成出版社)』
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阿弥陀仏(あみだぶつ)にすがって,その仏国土である極楽浄土に往生(おうじょう)して,そこで悟って安楽を得る道を説く大乗仏教の教え。根本経典は『無量寿(むりょうじゅ)経』『阿弥陀経』『観無量寿経』の浄土三部経。この教えの原型は紀元前後のインドで成立したが,「南無阿弥陀仏」という六字の名号(みょうごう)を称えて浄土往生できるという信仰が流布したのは中国の善導(ぜんどう)(613~681)の影響が大きい。浄土信仰は7世紀には日本に伝わっているが,中国五台山に学んだ円仁(えんにん)によって比叡山で「山の念仏」の淵源が本格的に確立された。その流れから法然(ほうねん)が浄土宗を,親鸞(しんらん)が浄土真宗を興し,多くの日本人の心のよりどころとして現在に至っている。
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薬師如来の東方瑠璃光浄土や弥勒菩薩の兜率天(とそつてん),観音菩薩の補陀落山(ふだらくせん)など,仏・菩薩の住む浄土に往生し悟りを得ることを勧める教義を意味する。仏と浄土は阿弥陀如来と西方極楽浄土をさす。日本への伝来は古いが,平安時代に天台浄土教のなかから円仁・源信らが現れて教学と実践の基礎を築き,やがて鎌倉時代の法然・親鸞・一遍らが新宗派を形成する源流となった。
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…このような〈救済〉と〈解脱〉という対照的な概念は,さまざまな宗教経験を類型的に分析するうえで有効とされてきたが,もちろんキリスト教的世界に〈解脱〉的契機を内包する宗教経験が存在しなかったわけではなく,同様に仏教世界においても〈救済〉的な立場をとる宗教経験がなかったわけでもない。たとえばキリスト教世界における〈解脱〉的な宗教経験に属するものとしてグノーシス主義をあげることができ,それに対して仏教世界に属する〈救済〉的な宗教経験として浄土教信仰の系譜を考えることができよう。 仏教文化圏に発達した浄土教信仰では,阿弥陀仏の本願力(他力)によって無力な被造物(衆生)を救済するという教義が説かれ,それがしだいに大きな影響を及ぼすことになった。…
…すなわち(1)母を殺すこと,(2)父を殺すこと,(3)僧(阿羅漢)を殺すこと,(4)仏の身体を傷つけること,(5)教団の和合一致を破壊することの5種の罪をいい,無間(むげん)地獄に堕ちる罪であるから〈五無間業(ごむげんごう)〉ともいうが,これは基本的には同じ仏教でいう〈五悪〉(または〈十悪〉)や,キリスト教でいう〈七大罪seven deadly sins〉などと同じく道徳的規範に反する罪悪に属する。ところがのちになると,人間存在そのものが罪に覆われたものであるとの自覚があらわれ,それが極楽や地獄などの他界観や応報思想と結びついて浄土教的な罪業観が生じた。紀元後にインドで成立した浄土教は,このように原始仏教以来の倫理的な罪悪観をいっそう掘り下げたところに特徴があった。…
… 仏教復興政策のとられた隋代になると,北周の武帝による亡国と廃仏を同時に体験した旧北斉領内の仏教徒たちを中心にして,末法仏教運動が急速に展開する。この濁悪末世の時代にふさわしい教法として提唱されたのが,太行山脈の東側の河北省の地におこった信行の三階教と,太行山脈の西側の山西省におこった道綽(どうしやく)の浄土教であった。信行や道綽は,《大集月蔵経》の説く末法時を現今と読みとることによって,末法仏教つまり今の我々を救う仏教を提唱した。…
※「浄土教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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