上矢田村(読み)かみやだむら

日本歴史地名大系 「上矢田村」の解説

上矢田村
かみやだむら

[現在地名]いわき市常磐じようばん上矢田町かみやだまち若葉台わかばだい

矢田川上流にあり、西は松久須根まつくすね村、南は下矢田村、東は上山口かみやまぐち村。正応二年(一二八九)七月九日の関東下知状(岡本元朝家蔵文書)によれば、「上矢田郷地頭妙蓮」などの出した起請文が岡本氏の所領相論の証拠の一つとされている。近世は磐城平藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に上やた村とあり、高二一七石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高三一八石余。正保郷帳では田方二四〇石・畑方七八石余。元禄郷帳では上矢田村は高三三二石余、枝郷の獺沢おそざわ村は高九一石余。天保郷帳に「古者 上矢田村・獺沢村弐ケ村」と注記される。


上矢田村
かみやだむら

[現在地名]亀岡市上矢田町

北は下矢田村・中矢田村、南は山に接する。村内を年谷としだに川が北流し、川に沿って鍬山くわやま神社への参道が続き、道の両側南北に家が並ぶ。年谷川東岸に枝村四軒屋しけんやがある。中世は矢田庄の地。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」は、高一一九・七二五石、戸数二〇、亀山藩領で、村民は農を業とし、田地すべて上田、所産五穀は上品であったと記す。

矢田天神の南に四軒屋へ通じる天神てんじん橋がある。この橋は川が深く、両岸が崖になっていて急流なので橋脚を川中に建てることができず、左右の岸から組みかけ、その形が天字形をしていたので、天字てんじ橋ともいわれた。天正(一五七三―九二)の頃、丸木橋を作って渡したが、洪水のために流された。


上矢田村
かみやたむら

[現在地名]西尾市上矢田町

市のほぼ中央西寄りに位置し、北は羽塚はつか村、東は国森くにもり村、南は下矢田しもやた村、西は高尾たかお(天保郷帳にない)に接する。北野きたの第一号・第二号遺跡、熊子くまこ第一・第二・第三遺跡、東出ひがしで遺跡、屋下やした遺跡が散在し、須恵器・土師器や中世の土器出土。古代より中世にかけて集落の開けていたことを物語る。「和名抄」に記す幡豆はず郡八郷のうち八田やた郷に比定される。中世吉良氏の幕下にあった高木矢田次郎・竹田勘八・太田荘左衛門がここに拠る。


上矢田村
かみやたむら

[現在地名]津幡町上矢田

能瀬のせ川中流、下矢田村の上流谷間に位置。正保郷帳には下矢田村と並記して高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一五一石、免六ツ五歩、小物成は山役一六八匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数一四(高免付給人帳)。天明八年(一七八八)山崩れと川筋石入りによる変地御償米代として三ツ二歩引免、以後引免は上下したが、享和二年(一八〇二)から三ヵ年二ツ五歩引免。同年の高一四五石(「河北郡引免根帳」林文書)。文化八年(一八一一)の田高六七石余・畑高一二石余・惣屋敷高八石余、家数二六・人数一三八、牡馬六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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