矢田庄(読み)やだのしよう

日本歴史地名大系 「矢田庄」の解説

矢田庄
やだのしよう

亀岡市の矢田地域を中心とし、東は浄法寺じようぼうじ広田ひろたもりを含み、「桑下漫録」所載の亀山城図に「城地者則川人郷矢田庄也」とあり、さらに同書が並河なみかわ辺りまで矢田庄としているのによれば、西は江戸時代の城地を含め並河辺りまでを荘域としたと推定される。

史料により「八田」とも記されるが、八田は、上矢田かみやだ鍬山くわやま神社の楽田・油田・華田・八日田・相撲田・馬場田・雑用田・奉射田の八田から出ているという。

天元三年(九八〇)二月二日付某寺資財帳(金比羅宮文書)に、丹波国として「矢田庄二町余故住持御忌日料」とみえるが、これについては綾部市内に比定する説もあり定めがたい。


矢田庄
やたのしよう

近世の河内国丹北郡矢田部やたべ村付近にあった山城石清水いわしみず八幡宮寺領庄園。延久元年(一〇六九)の庄園整理令に基づき石清水八幡宮寺領に関して同四年九月五日付で、それぞれの庄園の存廃について太政官牒(石清水文書)が出されたが、そのなかに矢田庄がみえる。この太政官牒によると、当庄は九ヵ所に散在する墾田六町八反から構成されていた。記録所では、この墾田が承平六年(九三六)以来相伝されてきた公験が存在すること、石清水領と認めた国司判が数十代に及んでいることなどの理由に基づき、当庄の存続を認めている。しかしその後の動向は不明。太政官牒には当庄の字名として一条矢田部ほかがみえるが、これらのうち一条篠原しのはら里は古代の難波大道に沿った西我堂にしがどう(現松原市)の小字篠原にあたると考えられる。


矢田庄
やたのしよう

成立年代・領主ともに不詳だが、荘名は、京都妙満みようまん寺所蔵の正平一四年(一三五九)三月一一日付の鐘銘に「紀伊州日高郡矢田庄 文武天皇勅願道成寺冶鋳鐘」とみえ、この鐘が道成どうじよう寺の鐘として鋳造されたことがわかり、また道成寺が日高郡矢田庄内に位置していることが解される。鐘銘には鋳造の檀那として源万寿丸の名がみえる。源万寿丸について「続風土記」は、源義光の次男武田義清の嫡男逸見源太清光の八代の後胤逸見四郎太郎源満清の次男とし、「正平年中後村上天皇に奉仕し数度武功あり当荘を賜はり当所に住し八幡宮飛鳥社道成寺等の鐘を寄附す」と記す。


矢田庄
やたのしよう

興福寺大乗院領荘園であり、同寺西金さいこん堂が預所と考えられる。矢田庄は下鳥見しもとみ庄とともに番頭米を七五石、両庄分合計一五〇石を上納していた荘園で、ともにもと小野篁の寄進になる荘園という。治承四年(一一八〇)の平重衡の南都焼討に際して、西金堂衆が抵抗したとがにより平家により没収されたが、やがて平氏滅亡後に返還された(奈良市の→下鳥見庄。その所在は荘号からみると、現矢田町辺りに比定される。

「大乗院雑事記」の康正二年(一四五六)五月一六日条には「矢田庄番頭米事、以小泉矢田方ニ令問答了」とあり、これによると、在地武士の矢田氏が荘官であったと推測される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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