中国,元の夏の都。内モンゴル自治区ドロン(多倫)の北西方36km,ジャオ・ナイマン・スメ・ホトン(百八廟城)に遺跡がある。1256年フビライによって築かれた開平府がその前身であり,これが65年の大都築城後,上都と改称されたのである。上都は元朝歴代皇帝の夏の都として栄えた。マルコ・ポーロはこの町をシャンドゥとよび,フビライが6~8月をここで過ごしたとのべ,その宮殿の豪壮さ,庭苑の広大さ,庭苑の森の中に築かれた組立式竹製宮殿の精巧さなどを伝えている。19世紀末以来の調査によると,内城は東西557m,南北641mで塼壁で囲まれ,南辺に一門があり,内部に宮殿址その他の建造物址がある。内城を囲む外城の一辺は1389mで,南北辺に各1門,東西辺に各2門をそなえ,内城をはさむ形でその北東隅と北西隅に寺院址がある。外城の北と西を囲む広大な外苑があり,その北辺と西辺の土壁の長さは各2218mに達する。遺物としては,花唐草文や蓮弁文を刻した建築石材,大理石製の獅子頭や螭首(ちしゆ)や亀趺(きふ),石人,釣窯や景徳鎮窯の青白磁,竜泉窯の青磁などの陶磁片が発見された。元末の1358年(至正18)と63年の2回,紅巾の徒による侵入と破壊をこうむり,荒廃した。
執筆者:吉田 順一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、元(げん)代の夏の都。内モンゴル自治区灤河(らんが/ロワンホー)の上流右岸ドロンノールより川を隔てて北西約36キロメートルに遺跡が残っている。現在、チャオナイマンスメホトン(百八廟城)とモンゴル名でよばれる。古来この地方は優れた牧草地で鳥獣も多く、現在の北京(ペキン)地区に政権の中心を置いた遼(りょう)・金両朝の皇帝も夏期に巡幸し離宮を構えた。1250年代に兄帝モンケより中国方面を委任されたフビライは、この地を根拠地として56年に初めて中国式城市を営み、開平府と名づけた。60年兄の死後、政権奪取を計って開平府に自派を結集し帝位についた。64年弟アリク・ブハとの内戦に実力で勝利すると上都と改称し、ついで旧金朝の故都の近郊に大都(北京の前身)を造営して両京制をとった。以後、元王室は旧暦9~4月の冬期は大都とその周辺で越冬し、同5~8月の夏期は高燥な上都一帯に北上して宮廷・軍団ごと巡遊・放牧した。上都は正方形に近い内外2郭(かく)と、北西両面に張り出す外苑(がいえん)とからなり、四面2200メートルほどの規模で、寺院・官衙(かんが)・居民区となった外城内には10万人程度の居住が可能であった。遺跡はイギリスのブッシェル、ロシアのポズドネエフ、鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)、桑原隲蔵(じつぞう)が踏査し、アメリカのインペイの実測を経て、日本の東亜考古学会の調査報告『上都』の刊行(1941)で全貌(ぜんぼう)が世界に知られた。
[杉山正明]
元の首都大都が冬の都であるのに対し,副都の上都は夏の都。1256年にクビライが建造した。初め開平府といったが,クビライ即位後の64年に上都と改称した。中国内蒙古自治区ドロン・ノールにその遺跡があり,外城は一辺約1.4kmの矩形である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…中国全体の首都となると,物資を充実するために大運河はいよいよ整備され,国都防衛の必要から長城はますます堅固に築かれたのである。
【歴史的変遷】
[燕の上都]
北京は周代の初め,前12世紀から燕(えん)の都として薊(けい)の名で史上にあらわれる。戦国時代には燕の上都(下都は易(えき)県にあった)となり,華北地区の代表的都市であった。…
※「上都」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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