上都(読み)じょうと

日本大百科全書(ニッポニカ)「上都」の解説

上都
じょうと

中国、元(げん)代の夏の都。内モンゴル自治区灤河(らんが/ロワンホー)の上流右岸ドロンノールより川を隔てて北西約36キロメートルに遺跡が残っている。現在、チャオナイマンスメホトン(百八廟城)とモンゴル名でよばれる。古来この地方は優れた牧草地で鳥獣も多く、現在の北京(ペキン)地区に政権の中心を置いた遼(りょう)・金両朝の皇帝も夏期に巡幸し離宮を構えた。1250年代に兄帝モンケより中国方面を委任されたフビライは、この地を根拠地として56年に初めて中国式城市を営み、開平府と名づけた。60年兄の死後、政権奪取を計って開平府に自派を結集し帝位についた。64年弟アリク・ブハとの内戦に実力で勝利すると上都と改称し、ついで旧金朝の故都の近郊に大都(北京の前身)を造営して両京制をとった。以後、元王室は旧暦9~4月の冬期は大都とその周辺で越冬し、同5~8月の夏期は高燥な上都一帯に北上して宮廷・軍団ごと巡遊・放牧した。上都は正方形に近い内外2郭(かく)と、北西両面に張り出す外苑(がいえん)とからなり、四面2200メートルほどの規模で、寺院・官衙(かんが)・居民区となった外城内には10万人程度の居住が可能であった。遺跡はイギリスのブッシェル、ロシアのポズドネエフ、鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)、桑原隲蔵(じつぞう)が踏査し、アメリカのインペイの実測を経て、日本の東亜考古学会の調査報告『上都』の刊行(1941)で全貌(ぜんぼう)が世界に知られた。

[杉山正明]

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精選版 日本国語大辞典「上都」の解説

じょう‐と ジャウ‥【上都】

[1] 〘名〙
① みやこ。帝都。
※日本後紀‐延暦一八年(799)二月乙未「令上託遊猟葛野地、更遷上都」 〔班固‐西都賦〕
② 地方から都へ行くこと。上京。〔随筆・秉燭譚(1729)〕
[2] 中国、元の都の一つ。もと開平府といい、一二五六年フビライが帝位についた地。北京遷都後は元朝歴代皇帝の夏の都となった。内モンゴル自治区の灤河(らんが)の上流、多倫(ドロン)の北西に遺跡がある。

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旺文社世界史事典 三訂版「上都」の解説

上都
じょうと

元の首都大都(現在の北京)にし副都の地位にあった都市
1256年世祖フビライ=ハンが築城して以来,歴代皇帝が避暑地として利用。元の滅亡後,破壊された。現在の内モンゴル自治区,灤河 (らんが) 上流のドロン−ノール北西に遺跡がある。

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世界大百科事典 第2版「上都」の解説

じょうと【上都 Shàng dū】

中国,元の夏の都。内モンゴル自治区ドロン(多倫)の北西方36km,ジャオ・ナイマン・スメ・ホトン(百八廟城)に遺跡がある。1256年フビライによって築かれた開平府がその前身であり,これが65年の大都築城後,上都と改称されたのである。上都は元朝歴代皇帝の夏の都として栄えた。マルコポーロはこの町をシャンドゥとよび,フビライが6~8月をここで過ごしたとのべ,その宮殿の豪壮さ,庭苑の広大さ,庭苑の森の中に築かれた組立式竹製宮殿の精巧さなどを伝えている。

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