上野田村(読み)かみのだむら

日本歴史地名大系 「上野田村」の解説

上野田村
かみのだむら

[現在地名]吉岡村上野田

榛名はるな山東麓に広がる村落で西は水沢みずさわ(現伊香保町)、東は下野田村、北は小倉おぐら村、南は北下きたしも村と接する。西方に船尾ふなお山があり、同山の船尾滝に源を発する滝沢たきざわ川が村内を貫流し同川を主たる用水源とする。村落のほぼ中央を伊香保いかほ道が東西に走る。かつては長岡ながおか(現榛東村)などと一村をなしており、その後野田村として独立、近世初頭に上・下二村に分れたといわれている。元和五年(一六一九)の安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では田方三三町六反余・畑方二二町四反余、高崎藩領。天保九年(一八三八)諸商渡世書上帳(森田文書)によれば旗本有馬領などの四給、家数は九六軒でそのうち五二軒は主として農業に従事し、四四軒が農間商として居酒屋や雑貨商、その他の職人となって生活をたてていた。


上野田村
こうずけだむら

[現在地名]日野町上野田

大谷おおたに村の南、日野松尾ひのまつお町の西に位置。村の西部を御代参ごだいさん街道が通り、北端を出雲いずも川が西流する。東端雲雀ひばり野には日野村井ひのむらい町の綿向わたむき神社(現馬見岡綿向神社)御旅所がある。北部の北代きたしろ遺跡からは七世紀後半頃のものと思われる方墳や住居跡が検出された。地名の由来については、天暦年間(九四七―九五七)に上野国多胡たこ郡の民を移住させて開墾させたことにちなむという説をはじめ、開墾者カウズケなる人物の名田の遺名とする説、神馮田あるいは出雲川への川付き田が変化したという説などがあるが(日野町志)、定かではない。元亨四年(一三二四)二月二日の儀俄氏義絶状(蒲生文書)の一門証判連署のなかに上野田又太郎俊隆の名がみえる。至徳二年(一三八五)には足利義満が京都相国しようこく鹿苑ろくおん院領を除く上野田保の田所職などを儀俄氏秀に安堵しており(同年一二月一九日「足利義満御教書」同文書)、当時、蒲生氏の分家儀俄氏と鹿苑院がこの地を分有していたらしい。


上野田村
かみのだむら

[現在地名]白岡町上野田

隼人はやと堀川の左岸にあり、西は寺塚てらつか村・千駄野せんだの村、北は高岩たかいわ村、東は下野田村など。飛地が彦兵衛ひこべえ村にある。日光御成道が南北に貫通、笠原沼かさはらぬま用水・高岩落・姫宮ひめみや落川・隼人堀川が流れる。大宮台地慈恩寺じおんじ支台に位置し、地内東部の茅場は茅葺屋根の材料供給地として利用されてきた(明治一六年迅速測図)。戦国時代頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「武蔵州太田庄野田市」がみえる。百間もんま領のうち。享保(一七一六―三六)の初め頃まで下野田村と一村であった(風土記稿)


上野田村
かみのだむら

[現在地名]浦和市上野田・寺山てらやま

新染谷しんそめや村の南に位置する。東は代山だいやま村・高畑たかばたけ村など。高畑・新染谷両村内に飛地がある。西を見沼代用水(東縁)、東を伝右でう川、北を天久保あまくぼ用水が流れる。日光御成道が縦貫し、同道沿いに集落が発達する。「蓮如上人御法語」によると、親鸞在世中の二十四輩門人の一人に「西念御房武蔵国野田」とみえ、野田を当地に比定する説がある。戦国期頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「足立郡野田市」とあり、この頃当地では市が開かれていた。なお観応元年(一三五〇)足利尊氏は野田中丸なかまるの地を勲功の賞として春日行元に宛行ったと伝えるが(風土記稿)、それを裏付ける確かな史料はない。


上野田村
かみのだむら

[現在地名]上津江村上野田

江戸時代はほぼ野田村として推移するが、上野田村と下野田村(現中津江村)に分村、その時期は明治二年(一八六九)から同四年の間と考えられる。ただし上野田村は現上津江村の南東部で、下野田村は現中津江村の東端に位置し、地域としては飛地となっている。上野田村は上野田川流域の中雉谷なかきじや片仁田かたにた若林わかばやし小川原おかばる吉之本よしのもとなどの集落があり、史料上の初見は旧高旧領取調帳。

慶長三年(一五九八)八月一五日の戸倉友重知行宛行状案(毛利高棟文書)に「津江谷赤石小河原、於野田之内百石」とあり、毛利高政が同所など二〇〇石を森織部に加増分として宛行っている。


上野田村
こうずけだむら

[現在地名]仙北町上野田

丸子まるこ川下流左岸に位置し、北は川を挟んで払田ほつた村、東は土崎つちざき村、南は安城寺あんじようじ村(ともに現千畑せんはた村)、西は高梨たかなし村と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三二五石とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には当高で本田二七四石余、新田一六石余、合計二九〇石六斗七升一合とある。同一五年の「六郡郡邑記」によれば家数は一軒、支郷に樋口とよのくち村九軒、四十八しじゆうはち村一軒、浮田村五軒、なか村四軒があった。


上野田村
かみのだむら

[現在地名]姫路市飾磨区上野田しかまくかみのだ・飾磨区上野田一―三丁目・飾磨区野田町しかまくのだちよう佃町つくだちよう安田やすだ一―四丁目

飾東しきとう郡に所属。野田川の上流域からさらにその水路の上流にあたる三左衛門さんざえもん(外堀川)の右岸にかけて位置する。南の下野田村とともに中世は飾万津しかまつ郷野田村に含まれており、近世初頭に分村したとみられる。慶長国絵図に「下のだ村」の北に「上野田村」が記される。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方五一九石余・畠方三三石余。


上野田村
かみのだむら

[現在地名]勝北町上野田

下野田村の北に位置、広戸ひろど川流域で平地が広がる。正保郷帳に村名がみえ、田四〇〇石余・畑七二石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一二五石余・開高二六石余、村位は中。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数三八(うち大西五など)、延宝四年からは津山藩主の弟森長俊領。森氏断絶後は幕府領だが、宝永五年(一七〇八)の一ヵ年は甲斐甲府藩主徳川綱豊領、のち幕府領、延享二年(一七四五)から因幡鳥取藩預、宝暦五年(一七五五)から幕府直轄地、天明七年(一七八七)から下総佐倉藩領、寛政一一年(一七九九)から幕府領、同年播磨龍野藩預、文化一四年(一八一七)より津山藩領(美作国郷村支配記)


上野田村
かみのたむら

[現在地名]上越市上野田

下野田の南東に位置する。天正一一年(一五八三)と推定される七月一三日の益田照従副状、年未詳六月一三日の本願寺顕如印判状などの本覚坊文書に下野田村と並んでみえる野田村は当村のことと思われ、当時真宗門徒が講を結成していたことが知られる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所窪田拵此外四方分上野田村 上」とみえ本納三七〇石九升一合六勺・縄高四五七石七斗四升三勺、家二〇軒・六〇人。正保国絵図では高二二八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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